「私がミニスカートをはいても、ニューストピックにならない世の中になってほしい」 “渋谷系の女王”野宮真貴さんが語る音楽と人生の「昨日・今日・明日」 「渋谷半世紀」~若者の聖地の今~

ピチカート・ファイヴの小西康陽さんと野宮真貴さんが出演した2001年のパルコ広告の前で。「小西さんの書く詞って一見ポップで明るく感じられるけど、エモーショナルで深い何かが込められている」=東京・渋谷パルコ(撮影・大島千佳)

 渋谷を発信地として1990年代に流行した“渋谷系”ポピュラー音楽。このジャンルを牽引したバンドの一つ「ピチカート・ファイヴ」は、国内外の音楽シーンに大きな影響を与えた。84年から小西康陽さんが率いたバンドは、91年に3代目ボーカルとして野宮真貴さんを加えると一躍メジャーな存在に。野宮さんは“渋谷系の女王”と呼ばれ、2001年に解散した後もソロで活躍を続ける。開業半世紀となる渋谷パルコで今冬開催された「PARCO広告展」ではゲストキュレーターも務めた。渋谷系の時代をつくってきたクリエーターたちとの思い出、そして81年の歌手デビューから43年に及ぶ活動の今後について話を聞いた。(共同通信=内田朋子)

 ▽渋谷系誕生

 90年代の日本に渋谷系音楽の大きなムーブメントが誕生した要因の一つに、ピチカート・ファイヴのリーダー小西康陽さんと野宮さんの“出会い”があったことは間違いない。
 「ピチカートの前にポータブル・ロックという3人組のバンドで、歌手として10年のキャリアがあった。小西さんがこのバンドを知っていて、公園通りのパルコで行ったライブを見にきてくれたのね。演奏は録音を流して、私の歌だけ生で、楽器は当て振りだった。そのときの私のパフォーマンスを見て『ピチカート・ファイヴの構想を思いついた』と後に聞きました。最初は一方的な出会いだった」と笑う。
 当時のピチカート・ファイヴのボーカルは「ORIGINAL LOVE」の田島貴男さんが務めていたため、最初はコーラスとして参加することになったという。「その後、田島さんが自分のバンドに専念することになり、小西さんからメインボーカルになってほしいと毎日電話があった。口説き文句は『君を絶対スターにする』」
 小西さんにとっては「こんなボーカリストを探していた」とひらめかせる決定的な出会いだったのかもしれない。
 こうして、野宮さんを正式に迎えたピチカート・ファイヴは、「最新型のピチカート・ファイヴ」などのミニアルバム、フルアルバム「女性上位時代」の実験的で洗練された音楽とCDデザイン、ファッション性の高いライブ活動で話題を呼び、渋谷系として快進撃を続けるようになる。「ピチカートで活動していた10年間は多くの経験をして本当に充実していた。海外進出はじめ想像していた以上のことが次から次へと起こり、30代で若さと気力、体力があったので、新しいことに楽しみながらチャレンジできた。いろんな世界を見せてくれた、それが私にとってのピチカート・ファイヴ」

1980年代のパルコの広告作品と野宮真貴さん=東京・渋谷パルコ(撮影・大島千佳)

 ▽監督と女優

 野宮さんをボーカルに迎えて、小西さんもあふれ出るようにたくさんの名曲を作っていった。そして2人はバンドの中で“監督と女優”のような関係を築いていった。「私は決まったことに対して自分の意見を言うことは一度ぐらいしかなかった。言われたことをそれ以上に表現して返す、というスタンスでいたから」
 小西さんと野宮さん、94年までメンバーだった高浪慶太郎さんの3人には「子どものころ聴いていた60年代のグループサウンズやビートルズとかの音楽が好き」という共通点があった。「メンバーたちが好きな60年代のハッピーな音楽がベースにあり、90年代の最新の音楽手法―DJやクラブミュージック、そしてサンプリング(他の楽曲からの引用)を取り入れることで、ポップでリズム感があり、みんなが踊れるような音が生まれた」のだという。「古いものと新しいものをミックスした音楽。でも根底のメロディーラインがしっかりしていたから、今聴いても古くならないのかな」
 ピチカート・ファイヴや、小沢健二さんと小山田圭吾さんによる「フリッパーズ・ギター」などの渋谷系のバンドは、創作のヒントを得ていた60年代の英米のバンドや、フランスやイタリア映画のサウンドトラック、それらに関わるファッションやデザインの情報を発信する役割も担っていた。
 「意図的ではなくて、バート・バカラックなどの音楽、ヌーベルバーグの映画などに対する自分たちの“好き”という気持ちが高じ過ぎて、『こんないいものがあるんだよ』って皆に伝えたいという流れになっただけ」とほほ笑む。
 フランス映画の女優を思わせる野宮さんのファッションの評価も高かった。小西さんもクリエーターたちへのリスペクトを込めて、創作の引用元をいつも明らかにしていたという。
 「渋谷系をつくった男の一人と言われるHMV渋谷(英国に本拠を置く外資系大型CD店の日本1号店)の太田浩さんという名物バイヤーがいて、小西さんやフリッパーズの小山田さんが推薦する海外の音楽やカルチャーを店内で紹介していた」。まだインターネットが普及していない時代、それがファンの間で話題になり、情報として広がっていくという特異な現象も起きた。

「『パルコを広告する』1969―2023 PARCO広告展」会場でポーズを取る野宮真貴さん=東京・渋谷パルコ(撮影・大島千佳)

 ▽信藤三雄さんとの思い出

 透き通った高音の声を持つ野宮さんの洗練されたルックス、完成されたステージやCDデザインはファンを魅了した。そんなピチカートの世界観の形成には一流のカメラマン、ヘアメーク、スタイリストなどのスタッフが関わった。その中心にいたのが、23年2月に75歳で亡くなったアートディレクターの信藤三雄さんだ。松任谷由実さん、MISIAさん、渋谷系アーティストなど千枚以上のレコードやCDのデザインを手がけ、パルコの広告もつくった大物クリエーター。
 「信藤さんとの打ち合わせには特徴があって、沈黙が続くことが多かった。小西さんが出したビジュアルのアイデアに対して、信藤さんが答えるまでの時間がすごく長かった。きっと頭の中にある膨大な知識を探していたのだと思う」

野宮真貴さんをモデルにした、信藤三雄さん制作のパルコの広告「HAPPY BIRTHDAY P’PARCO」(1996年 AD:信藤三雄 P:稲葉ゲン)

 70年代からのパルコの名作広告の数々を紹介した「PARCO広告展」では、立命館大教授で作家の千葉雅也さんと共に90年代の広告のキュレーションを担当した野宮さん。90年代の空気を伝えることを大切にしたというが、「信藤さんの作品を多めに選んじゃいました」。
 「パルコの広告で印象に残っているのは70年代の山口はるみさんのイラスト。80年代は糸井重里さんのコピーの言葉が印象的だった。90年代に入ると信藤さんのレコードジャケットのような広告が出て、自分も出演する側になっていた」。80年代にあった文学性が90年代はポップさに代わっていったと千葉さんは分析していたという。
 「ガーリーカルチャー(若い女性が自己表現する文化)を取り入れたり、(映画監督として)有名になる前のソフィア・コッポラを写真家として起用したり、パルコは先見の明があると思った」と野宮さん。「90年代は小室哲哉さんが活躍していた時代なのに、渋谷系カルチャーのクリエーターたちをアートディレクターや出演者に起用したのもすごい」
 振り袖を着た野宮さん、はかま姿の小西さんと外国人観光客たちを東京で撮影した2001年冬のグランバザール(大型バーゲン)の広告も信藤さんの制作。インバウンド(訪日客)があふれる現在の東京や渋谷の街を予言しているかのようなビジュアルだ。バンド解散の年でもあり、ピチカート・ファイヴ最後のアルバム「さ・え・ら ジャポン」では海外の人から見た日本をテーマにしていた。

信藤三雄さんが野宮真貴さんをモデルに制作したパルコの広告(左)。「信藤さんほど私を褒めてくれた人はいない。『君の頭蓋骨は本当に美しい』とまで言われて戸惑ったことも」=東京・渋谷パルコ(撮影・大島千佳)

 ▽「東京は夜の七時」の背景

 ピチカート・ファイヴで一般によく知られる曲といえば「東京は夜の七時」。
 「あれは小西さんが恋愛中に作った曲で、私自身もテレビの仕事で知り合った(後に夫となる)男性に恋していたから、2人の気分がこの曲を生んだのかもしれない。あのメロディーは他になく、30年歌い続けている大切な曲」。93年当時の東京に流れていたクールでハッピー、一種の浮かれた雰囲気、前に進むエネルギーが詰まった作品だとも語る。
 「そんな背景が音楽として表現されているから今でも多くの人に聴いてもらえて、2016年のリオパラリンピック閉会式の引き継ぎ式でも編曲が使われたのでは。東京を代表する曲だと思う」
 81年の野宮さんのソロデビューアルバムにあった佐藤奈々子さんの曲を、ピチカートが当時最新のサンプリングを駆使してモダンによみがえらせた「トゥイギー・トゥイギー」もお気に入りだという。ロバート・アルトマン監督の「プレタポルテ」(1994年)、劇場版「チャーリーズ・エンジェル」(2000年)などのメジャーな外国映画でも使われたことで知られる。
 ピチカートは米国、パリ、ロンドン、イタリア、スペイン、そしてロシアまで、海外でも多くのツアーを行っていた。「感度の高いゲイの方たち、クリエーター、またクラブキッズたちに支持されていた」「不思議なことに、当時は全世界“渋谷系”化という現象が起こっていたと思う。音楽の趣味、風貌、おしゃれのセンスも小西さんに似ている人が各国に必ずいて、渋谷系という言葉が世界中で通じた。今も通じると思いますけどね」と話す。
 「残念なことに、東京の渋谷系の間では横のつながりが当時はなかったのね。でも、小山田さんは『ボサ・ノヴァ2001』をプロデュースしてくれた。ピチカート以外で渋谷系のこの一曲といえば、やっぱり小沢健二さんとスチャダラパーの『今夜はブギー・バック』を挙げるかな」

 ▽好きなことを貫き通す

 ピチカート解散後の2001年からは、エディターの川勝正幸さんがプロデューサーとなり、ソロのキャリアが始まった。高野寛さんら音楽面でのプロデューサーも加わった。「新たな人たちと一緒にアルバムを作り、シアトリカル(演劇的)なリサイタルにも挑戦してきた」という。
 「2010年代に入ってからは毎年ビルボードライブで『野宮真貴、渋谷系を歌う。』シリーズというのを続けている」。デビュー30周年にソロアルバム「30」を出した時に、10年間封印していたピチカートの歌をセルフカバーした。ミュージシャン大瀧詠一さんの「迷ったら墓参り(前に進む時にはまず原点に返れ)」という名言を思い出し、「解散してから10年、改めてピチカートを歌ってみて、本当に良い楽曲が渋谷系とそのルーツにいっぱいあると気が付き、歌手としてそれを歌い継いでいくのが私の使命じゃないかと思った」。
 2022年は元ピチカートの高浪さん、鈴木慶一さん、横山剣さんらの同世代だけでなく、野宮さんの子どもと同じ世代でもあるロックユニット「グリム・スパンキー」の松尾レミさんらが参加した40周年記念アルバム「New Beautiful」もリリースした。
 11回目となる2024年のビルボードライブ開催を前にして、渋谷系の女王の目には今の渋谷の街や文化はどのように映るのだろうか?
 「毎週渋谷のコミュニティーFMに出演して、移り変わる街の様子を見ている。今でも音楽とファッションを発信し続ける若者の街だと思うが、情報が多すぎてスクランブル交差点でくらくらしちゃう」と笑う。「新しく変わっていくことも大事だけれど、大人も楽しめるような成熟した街、若者と大人が交われるような場所であってほしいな」

「かつて『スター』は憧れの存在だった。でも今はネットで簡単にスターとつながれる時代になっているのよね」と話す野宮真貴さん=東京・渋谷パルコ(撮影・大島千佳)

 エイジレスでエレガントなファッショニスタ野宮さんのイメージはずっと変わらない。
 「ピチカートの時は年齢非公開だったから、これからも年は気にしないで自分が好きなことをやっていきたい」「ステージに立って歌うことが一番なので、そのためにエクササイズをしたり、健康でいることとかは気をつけている。コロナ禍で活動自粛の時期も、いつステージに出て行ってもよいように努力していた」
 野宮さんの強みは「好きなことをちゃんと選べる」ところ。人気絶頂時に結婚し、長男が生まれ、子育てをしながら仕事もこなしたが、「自分の幸せは自分で選ぶ」という姿勢を保ち続けたという。生き方、仕事、ファッション、どんなことに対しても自分の「好き」を貫くには、強くてしなやかなインテリジェンスが必要だと語る野宮さん。そんな生き方が今こそ求められる時代だろう。
 「還暦ライブの時にミニスカートを解禁した。この間も60年代ファッションのミニをはいて歌ったら、“63歳美脚披露”みたいことがネットの見出しになるのね。そんなことがニュースにならない世の中になってほしい。おしゃれが大好きだから、これからも人目を気にせずに何歳になっても自分が着たいものを着ていこうと思っている」

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 野宮真貴さんは以下のライブを予定している(全て1日2回公演)。2024年2月14日、ビルボードライブ横浜にて、ゲストに小山田圭吾さんとザ・スクーターズを招いた「Valentine Day’s Live 2024~Be My Baby~」。3月9日ビルボードライブ大阪、12日ビルボードライブ東京で、ゲストに志磨遼平さんを招いた「Birthday Live 2024~Glamorous Night~」を開催。

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