100年の歴史に幕 長崎・万屋町「樋口クリーニング店」 高齢化、燃料高騰など受け

アイロンをかける平原さん(右)と見守る寿美江さん=長崎市、樋口クリーニング店

 「染み抜きが上手」「仕上げがきれい」-。市民に愛され続けた長崎市万屋町の「樋口クリーニング店」が、100年の歴史に幕を下ろした。機械の老朽化や燃料などの高騰を背景に、閉店を決意。店主の樋口寿美江さん(82)は「周りに助けられて頑張ることができた」と、ほっとした表情を浮かべた。
 クリーニング受け付けの最終日だった20日。60年来の常連という70代女性が駆け込んできた。「ここ以外は考えられない。これからどうしよう」。寂しさをのぞかせ、寿美江さんをねぎらった。

昭和初期、万屋町に移転した後の樋口クリーニング店(同店提供)

 1923(大正12)年、寿美江さんの義父、故樋口幸之充さんが現在の浜町に店を構え、昭和初期に万屋町へ移転。終戦後、客の多くは米兵で、持ち込まれる衣類の多くは軍服だった。週末のデート前にはズボンのプレスを希望する行列ができ、「金庫からお金があふれるほど」売り上げる日もあった。
 60年代に入ると、絹や綿、麻といった洋服の素材が石油系の化学繊維に移り、家庭用の洗濯機で洗えるように。チェーン店も増えたが、専門店ならではの技術を頼りにした顧客が絶えなかった。弟子を抱え、約20人が住み込みで働いていた時期もあった。
 洋服を預かると、汚れやほつれなどを確認。生地やデザインの特徴に合わせて洗った後、1点ずつアイロンをかけていく。シャツの襟を立て、しわ一つない仕上がりや、こびりついた染みを落とす技術は定評があった。
 新型コロナ禍による外出控えや冠婚葬祭の機会減少の影響で、クリーニングの需要が減り、売り上げも激減。長年「だましだましで」使ってきた機械の買い替え時期が迫る中、5人の従業員も高齢になった。クリーニングに必要な可燃性の石油系溶剤をはじめ、洋服を包むビニールやハンガーなどの備品も値上がりし経営を圧迫。大正、昭和、平成、そして令和-。創業100年の節目を迎えた今年、悩んだ末、店を畳むことを決意した。
 今月初め、従業員の平原孝一さん(66)が蒸気に包まれながら、ズボンにアイロンをかけていた。平原さんは幸之充さんの最後の弟子。中学卒業後、半世紀にわたり店を支えた。「『(店で働くという)当たり前』が無くなるのは悲しいけど仕方ない。あっという間の50年だった」。そう語り静かにアイロンを置いた。
 かつて店の周辺に旅館が立ち並んでいたが、ビルや駐車場に変わった。「100年に1度」のまちづくりが進む長崎。この場所で街の変化を見守ってきた寿美江さん。「苦労もたくさんあったけど楽しかった。やっと息抜きできるかな」。涙が頬を伝った。

 長崎県クリーニング生活衛生同業組合によると、県内のクリーニング店はピーク時の昭和40年代、約400店舗あったが、現在は約130店舗(いずれも取次店、宅配店除く)。このうち100年以上の営業は数店舗。石油系溶剤を大量に使うため、建築基準法のハードルが高く、県内での新規開業はこの30年間で1店舗のみという。


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