肱川街道写真紀行 第一章 肱川あらし

大洲盆地と肱川

四季の変化と豊富な水量を誇る肱川(ひじかわ)が流れ込む四国大洲盆地。人々は遥か「いにしえ」の時代からこの川に生かされてきた。そして、その水源は愛媛県大洲市の南側に位置する西予市との境界付近にある。大洲城とこの水源地の距離は直線距離で10kmも離れてはいない。しかし、ここから約103kmに及ぶ旅をする。その結果、さまざまな自然現象や時には水害なども巻き起こして伊予灘へと向かうのだ。

水源地から西予市宇和町の田園地帯付近を経て同市野村町へと向かう。ここには「野村ダム」がその流れをいったん溜め込み下流へと放出している。河岸段丘で構成されたこの辺りの独特な地形を交わすように抜けて「奥伊予」と称されジオで知られる城川町へとたどり着く。

この付近の地層や地形は中央構造線の影響もあって「ジオパーク」に指定されている。ここから下流側は大洲市肱川町の「鹿野川ダム」の「ダム湖」による影響を受けていて水量がある程度確保されている。しかし、昨年秋の渇水では鹿野川ダムの貯水量が底を尽き0%となった。ちょうどこの付近が大洲盆地の「縁」になる。

大洲盆地の雲海(放射霧)## 超自然現象「肱川あらし」の源

いろいろな要素が複合的に重なり反応し合って生まれる「肱川あらし」は世界三大自然現象とも言われている。その詳細は2015年に大洲市が発行した「肱川あらしガイドブック」にも掲載されている。その中でも述べられているが大洲盆地に発生する「雲海(放射霧)」もその「要素」のひとつで「肱川あらし」のエネルギー源である。

大洲盆地へとたどり着いた肱川は、夏には日本三大うかいと謳われる「大洲のうかい」をもたらす。また、晩夏初秋には「鮎の瀬張り漁」が風物詩となっている。肱川河畔に建つ大洲城は、幕末において維新実現の舞台裏での立役者でもあり「小藩の名君」と謳われた第十三代加藤泰秋が最後の城主だった。

かつての対戦において運良く戦火を被っていなかった城下町大洲は、肱川のもたらす四季折々の美しい風景と人々の優しさが根付いた「画になる町」として近年人気を博してきている。雲海のことは「モヤ」と言う。子供の頃の記憶をたどれば「モヤが張っているときは雨は降らん」とよくお袋が言っていたことを思い出す。人々の日常に絡んでいるのだ。近年では「肱川あらし予報会」などの活動によりある程度の確立でその発生が知られるようになっており、写真愛好家にとっては人気の被写体となっているようだ。

河口の川面で発生する「蒸気霧」## 肱川あらしのカラクリ

大洲盆地からの肱川は距離にして約20㎞をほぼ「北西」の方角へと流れ、伊予灘でそのたびを終える。盆地という「空間」からあまり大きな蛇行もせずに「北西」に向かっていることが肱川あらしの発生を促す要素になっているのだ。毎年10月後半から1月くらいまでの時期で「大潮」の際に比較的規模の大きな肱川あらしが発生する。その期間、約4ヶ月くらいのドラマだ。

カラクリはこうだ。夜の間に北西からの冷気を肱川が吸い込んで大洲盆地に溜め込む(雲海=放射霧)。この雲海は夜明けが近づいてくると河口へ向かって流れ始める。そして、大和橋(やまとばし)付近の河口から1.5km付近で川面から発生する「蒸気霧(けあらし)」を巻き上げながら伊予灘へと排出される。

「大潮」の際に規模の大きなあらしになるというのは「汽水域」が上流へと昇って行くため発生する蒸気霧(気あらし)の規模と河口までの距離が長くなることにある。

日本最古の開閉橋の通学風景## 開閉橋と長浜町の暮らし

愛媛県大洲市長浜町。歴史的に藩政時代において大洲藩の重要な港であった。さらに、あの坂本龍馬や澤村惣之丞、吉村虎太郎などが脱藩する際に利用した江湖港(えごのみなと)があることでも知られている。河口のこの町に架かる日本最古の名物開閉橋「長浜大橋(通称:赤橋)」では、小学生から中高生に至るまでの子供たちが風速20mにも及ぶ肱川あらしが吹き抜けていく中を元気よく通学していくのだ。

超自然現象と共に生きる人々と暮らし。根付いてきた伝統や地域独特の素晴らしい文化は、デジタル化してしまっている現代社会において貴重な体験のできる地域空間だ。旅行会社クラブツーリズムの主催する写真撮影ツアーやSONYアカデミー主催の写真撮影教室などの協力を得ながら、「肱川街道写真紀行」がいつかツアー化されることを初詣に託した2024年の始まりだ。

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寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員

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