<5>「ママが消えた」日 家庭失いかけ不登校に 希望って何ですか

困窮家庭で育った半生を語ってくれた杏寿さん。中学時代は母が家を出たことをきっかけに不登校になった=2023年12月下旬

 赤、黄、緑色-。

 自宅に届く色とりどりの便りが、督促状だったことを覚えている。

 公共料金や税金、借金の返済時期を知らせるその色が、「緊急度」を示していることは物心ついた頃から分かっていた。

 「赤が一番、やばいです。差し押さえとかされちゃう。めんどくさがる親に私が『払って!』と言ったりして。小学生の頃かな」

 自嘲気味に語るのは、県北の旅館従業員、杏寿(あんじゅ)さん(20)=仮名=だ。

 12月上旬、宇都宮市にある通信制高校・日々輝学園宇都宮キャンパス。1年半ぶりに訪れた母校で、困窮家庭に育った自身の半生を語り出した。

    ◇  ◇

 県北にあるアパートで、幼い頃から外国人の父親、日本人の母親、4歳上の姉と4人で暮らした。読み書きをはじめ言葉に壁がある父。「ママは普通だった」けど、家計は両親共働きでも楽ではなかった。建設現場での仕事を終えた後にパチンコにのめり込む、父の浪費癖に圧迫されてきた。

 「電気、水道代はギリギリ。食費とかを削る感じだったと思う」

 小学生の頃、食事が一度も用意されない日も珍しくなかった。娘2人に食べさせようと、度々食事を抜いていた母の痩せた姿を見て、窮状は察していた。

 何かを欲しいと思ったこともないほど、苦しい生活。でも、母や姉と一緒にいることで辛うじて家族の形は保てていた。

 杏寿さんが中学2年生の頃。姉が1人暮らしを始めた。その後、大きな出来事が起きた。

 母が家を出て行った。

 「私と父を、本当に捨てたんだ」

 精神的に不安定で、酒を飲むと暴力を振るう父に「ママが愛想を尽かしていたことは知っていた」。でも、受け止めきれなかった。

 気力が出ず、学校から足が遠のいた。とにかく一人になりたい。自宅にこもり、ゲームをして時間をつぶす。そんな毎日が、1年以上続いた。

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 中学3年生になり、進路選択の時期が近づいたことが幸いしたのかもしれない。「今の時代、最低でも高卒じゃないとどこも雇ってくれない」

 将来への漠然とした不安が、杏寿さんを何とか起き上がらせた。

 同級生には会いたくなくて、相変わらず学校は休みがち。通えても保健室までだったが、進学先を探し始めた。そうして見つけたのが日々輝学園。通信制でも、週5日通学する「全日制スタイル」にひかれた。

 姉の働きかけもあり、学費の大半を別居中の母親が工面してくれることになった。なくなったと思った家族の形は、まだ残っていた。

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