「耐えられないほど寒い。でもここしかなかった」地震後、ビニールハウス暮らしの高齢者約10人 避難所へ行かない「事情」 力を合わせて4人救助

ビニールハウスでの避難生活の様子=石川県輪島市、1月9日

 能登半島地震で被災した石川県輪島市の山間部に、稲屋町という集落がある。この地域が受けた被害も大きく、家が倒壊した住民約10人が農業用のビニールハウスに身を寄せ、避難生活を続けた。氷点下を下回る日もあるほどの場所で、外とビニール1枚隔てただけの生活。北国で暮らしてきた住民にとっても「耐えられないほどの寒さ」だった。それでも工夫を凝らし、2週間も滞在。崩れた建物から住民4人も救助した。彼らはなぜ避難所へ行かなかったのか。話を聞くと、集落を離れられない事情があった。(共同通信=江浜丈裕)

 ▽普段から団結、集落の力
 1月1日、稲屋町を巨大な揺れが襲った。自宅2階にいた住人の干場昇一さん(76)は、倒壊した家屋の隙間から外にはって出ることができた。一階にいた妻と帰省中の息子夫婦、孫3人も奇跡的に無事だった。
 外に出た近所の人々は、冷たい風を避けるため自然とビニールハウスに集まってきた。一方で、顔を見せない人が何人もいた。25軒ほどの小さな集落で、全員が顔見知り。誰がいないのかはすぐに分かった。
 「下敷きになっているのでは…」
 心配になった干場さんらが倒壊した家屋に向かって「誰かいるか」と叫ぶと、「ここだ」と叫び返す声。この家に住む松本幸三さん(74)だった。

倒壊したり、傾いたりした家が雪に埋もれている

 松本さんは家が崩れた衝撃で気を失っていたが、「呼ばれていて、気がついた」。
 干場さんらが耳を澄ますと、ほかにも周囲から助けを求める声が聞こえる。
 「助けに行くから待ってろ」。ジャッキやのこぎりを使い、家屋に挟まって逃げられない人の救出に、みんなで取りかかった。
 木戸清一さん(76)も救出作業をした一人。「いつ、がれきが崩れてくるか分からない。余震のたびに自分も死ぬんじゃないかと思った。助けようと、とにかく必死だった」
 結果的に4人を救い出すことができた。普段から団結している集落の力だ。松本さんは今も「助けてもらった」と感謝している。それでも干場さんは悔やむ。どうしても助けられなかった人が2人いたためだ。救助活動を終え、皆がビニールハウスに戻った時点で2日午前1時半を回っていた。そこから極寒に耐える生活が始まった。

ビニールハウスに避難した人々

 ▽「人間が住む場所じゃない」
 長さ60メートルのビニールハウスには当初、13~14家族の約30人が集まった。普段はキュウリやトマトの苗を育てる場所で、タネをまいたばかりだった。周辺に雪が積もったビニールハウスの隙間からは、真冬の冷たい風が容赦なく入ってくる。
 ダウンジャケットを着込んだ程度ではとても耐えられない。干場さんは状況をこう説明してくれた。「昼間は日光があるのでまだましだが、朝と夜の寒さは尋常じゃない。心も体も限界だ」。ビニールハウスの所有者、浦年信さん(72)も一緒に寝泊まりした。「命の危険を毎日感じている。人間が住む場所じゃない」
 寒さ対策として、居住空間と荷物置き場をブルーシートで分け、熱を逃がさないようにした。地面の上に、野菜の苗を入れるためのプラスチック製のトレーを敷き、その上に段ボール。さらに、持ち寄った布団やカーペットを敷き、下からの冷気が直接顔などに当たらないようにした。帽子をかぶり、ダウンジャケットを着たまま、夜は布団に潜り込む。
 それでも、朝晩は底冷えがする。的場正美さん(77)は白い息を吐きながら話す。「使い捨てカイロを全身に貼って寝る。これ以上は防寒方法が思いつかない」

ビニールハウス内のストーブで暖を取る人々

 ▽「無理やり元気にやるしか…」
 1月8日ごろまでは停電で、持ち込んだ電気カーペットや、こたつは使えなかった。帰省していた子や孫は自宅に戻り、親戚などの家を頼って避難する人もいた。
 それでも、集落の結束は固かった。日中はストーブを囲んで暖を取り、みんなで料理を作る。ガスこんろを使った汁物の食事は冷えた体を温めてくれる。木戸さんは「温かい食事を取ることが大切」と話す。
 「さあ、今日も頑張っていこう」。朝、起きると誰からともなく、声をかけ合う。「先は見通せないが、もう無理やり元気にやるしか仕方がない」
 起床後、協力して近くの川から水をくむのが日課になった。トイレは、かろうじて倒壊を免れた家で用を足しているが、断水のため流すのに水が必要だ。素手で近くの川の水をバケツにくみ、ペットボトルに移す。雪解け混じりの水は震えるほど冷たい。

ビニールハウス内の様子

 ▽「こちらの方が気楽」
 こんなにきつい生活をなぜ続けるのか、なぜビニールハウスを出て避難所に移らないのか。疑問に思って聞くと、干場さんは理由をいくつも挙げた。
(1)これだけの災害だから、避難所はいっぱいになると予想した
(2)コロナや感染症が心配だし、どろぼうの心配もある
(3)自宅近くであれば必要なものを取りに行ける。私もキャッシュカードを見つけた
(4)地域で団結すれば乗り越えられると思った。みんなで困難を乗り越えようという気持ちが強かった
 そして、こう続けた。「避難所に行けば、周囲は知らない人ばかり。ぎゅうぎゅう詰めの避難所で暮らすより、こちらの方が気が楽だ」
 特に男性は、小さいころから稲屋町で育った人が多い。「みんな、子どものころからの知り合いだ」。お互いに家族ができた後も、地域ぐるみで日常生活を通し、仲を深め合ってきた。知り合いだから、長い共同生活を送れたことは確かだ。

積み上げられた支援物資

 ▽「二度とここには住まない」
 輪島市は、地震発生からしばらくして、この「ビニールハウス避難所」を把握し、職員が水などの物資を運んでくれるようになった。事態を知った親戚や友人らも、さまざまな物資を送ってくれたという。
 地震発生から2週間が経過した15日までに、「ビニールハウス避難所」にいた人々は、家族単位でホテルなどに二次避難したという。固い絆で結ばれた集落だったが、今後どうなるのかは分からない。ハウスで暮らした人のほとんどが、「二度とここには住まない」と口をそろえた。理由は、倒壊した家を再建するのは金銭的に難しく、再建してもまた大地震に遭うかもしれないためだ。干場さんは「コミュニティーがなくなるのは寂しいが…」と漏らした。

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