「能登町の将来を真剣に考えた」能登の水を40年以上見守り続けた設計技師 最大震度7の地震が襲い…【前編】

残された“のと鉄道能登線”

石川県能登町。海沿いの国道249号からは、2005年に廃線となった、のと鉄道・能登線が走っていた跡が見てとれる。(前編・のうち、前編)

廃線になった後も残されている駅舎は多く、列車が到着することが無くなってからも、地元の人たちの手により維持管理されている。

ここには確かに鉄道があったのだと、記憶に留めるためのモニュメントのようだ。

残された駅舎には、かつてレールが敷かれていた場所に、サクラの木が植えられていた。また、ある駅舎には、思い出をつづるノートが置かれていた。

―――― ノートから抜粋 ――――
2017・6・3・4 土日
横浜から、母の生まれ故郷・波並(はなみ)に32年ぶりに来ました。
明治42年生まれの母は、網元の娘で、3歳ごろ、不漁続きで一家と函館へ。

その後、74歳のころ、娘の私と兄のお嫁さんの3人で、約70年ぶりに故郷・波並の光誓寺さんへと参り、大感激。もう一度、訪れたいと云いつつ、私達もかなえてあげられず、20年近く前に他界。
今回は、その母が32年前に、この駅の駅標前で撮った写真を持ち、私の次男の運転で訪れました。きれいに整備され大感激です。きっと桜が素敵な花見の駅となることでしょう。手をかけて下さる皆様に心から感謝申し上げます。ありがとうございます!!
今日は波高く、白い立山連峰。これから、祖父が使ったであろう、波並漁港を撮って空港へ向かいます。長々ごめんなさい

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平成29年8月14日(5時57分)
私は18歳まで波並に住んでいた者です。
親は200坪の土地を埋め立てしていて、そこに家を建てました。そこに鉄道が走り、家の真ん中に通ることになり、宇出津の町へ引っ越した者です。

今年80歳になる私を連れて、次男が故里へ連れて来てくれ、とても懐かしく、思わず写真を撮り、ペンを取りましたが、何しろ80歳で書きたいこともかけない状態です。とても懐かしかったです。
私は今、新潟の燕市に住んでいます。
さようなら!!

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2017年5月1日
1977年7月にこの駅舎で寝させて頂きました。ちょうど40年前になります。当時と同じ、バイクツーリングです。40年前は京都から、本日は茨城県からです。
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残された駅舎はとても静かで、聞こえてくるのは波の音ばかりだ。時が過ぎるのも忘れて、ノートの向こう側に見える色々な人生に思いをはせる。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

国道をそれて、山へ向かう狭い道路に入る。川沿いに少し走ると、真新しいコンクリートと銀色に輝く大きなタンクが見えてきた。

矢波(やなみ)浄水場。1日におよそ5,000トンの飲み水を作り出すことのできるこの浄水場は、人口約1万8,000人の能登町のインフラを支える基幹施設だ。

50年以上前、この地に設置されてから途絶えることなく住民に飲み水を供給してきた浄水場は、老朽化に伴って更新工事が完了したばかり。いわば“2代目”の矢波浄水場だ。

能登の浄水場を40年間見続けた技術者

「私が入社したばかりの新人の頃、もう40年ほど前の話になるが、能登というのは泊まり掛けの出張で行く場所だった。まだ高速道路もなく、遠い場所だった。けれども役場の水道課の担当者から、電話一本で呼び出されては、矢波浄水場まで赴いて、訳も分からず作業の手伝いをさせられて、夜には飲み会に誘われたよ」

“初代”の矢波浄水場の時代から、その維持管理などのほとんどを手掛けてきた、石川県金沢市に本社を置く、中堅の設計コンサルタント会社。もうじき定年を迎えるというベテランの設計技師幹部の宮内さん(仮名)は、昔を振り返り笑った。

新人の頃から通い詰めたという矢波浄水場。宮内さんは、セロテープで繋ぎ止められた古い設計図を前に、色々な思い出を語ってみせた。

先代の技術者が設計を手掛けたという矢波浄水場。その更新に向けた設計を、定年間際となった宮内さん自身が手掛ける事になったのは、感慨深いと話す。

「だから矢波浄水場には、能登町には、とても思い入れがある。悔いの残らないように、きっちりとした仕事をしたい」

プラントメーカーの営業として訪れた能登

記者が初めて、仕事で石川県能登町を訪れたのは、今から10年前の2014年。マスコミの世界を離れて、浄水場で必要となる装置などを取り扱う、いわゆるプラントメーカーで技術営業をしていたときのことだ。

“客先”への提案を行うため、全国各地の市役所や役場に足しげく通っていた。とにかく出張の多い仕事だった。

朝には香川の客先訪問、昼には東京で会議、夜には旭川の客先訪問――。そんな無茶苦茶なスケジュールもざらにあった。飛び回るための飛行機や新幹線の中では、ひたすら書類を片付けていた。そんな毎日に、充実感を覚えながらも疲れていたのだと思う。

里山の魅力に引き込まれる

あれは夏の終わりの夕方だった。矢波浄水場の更新に向けた提案を行うため、羽田を飛び立ち、初めて能登空港に降り立った時のことだ。

オレンジ色に染まる、どこか懐かしい里山の風景に、妙に心を打たれた。そして、能登の人たちと言葉を交わしていくうちに、それまで気ぜわしく、ざわついていた心が落ち着いていくのを感じた。何気なく入った食堂で振る舞われた料理は、びっくりするくらい美味しかった。能登は魚醤が有名で、多くの種類があるのだと教えられた。

「能登はやさしや土までも」

これは、能登の人は素朴で温かくだけでなく、その土地までも優しいという意味で、能登という土地柄が、そう表現されるのだと聞いた時、妙に納得した。そして記者は、能登の”ファン”になった。仕事に疲れたら、能登に用事を作って、出張をするようになった。

慎重に厳格に進められる”大きな買い物”

1日に5,000トンの飲料水を作ることのできる浄水場更新となると、その規模は相当に大きなものとなる。何千万円もする高価な装置がたくさん必要になるなど、総額は10億円を超える。町にとっても、数十年に一度の大きな買い物となる。

当然に、そのための業者や装置などの選定は慎重に行われる。役場の担当課は入念に情報収集し、専門知識を持つ設計コンサルタント会社がその助言を行う。それに対してプラントメーカーはプレゼンを実施し、技術的な説明資料の提出を重ねていく。そんな形で何年もかけて、導入すべき装置の候補が絞り込まれていく。

「薬品注入の制御条件が見えない。これでは国の定める基準を満足できるとは思えないが」

宮内さんは、とても厳格な技術者だ。メーカー側が製品の性能を謳うプレゼンを行うたび、些細な点にまで鋭い指摘が向けられる。技術的な裏付けに基づいた回答を、徹底的に求められる。胃の痛くなるようなやり取りが続く。

季節は関係無かった。緑したたる夏も、一面が雪に覆われてモノクロの世界になる冬も、石川へ、能登町へ、何度も何度も通った。

「技術者として機械の性能踏まえ判断」

そして、能登を訪れてから5年目の夏。

「新しい矢波浄水場に設置するプラント装置は、あなたの会社のものにする方針を固めた」

宮内さんを通じて“内定”の連絡を受けた。大きな成果が遂に実ったのだと、嬉しくなった。

「とにかく私は、能登町の将来を真剣に考えた結果、あなたの会社の装置にするべきと考えた。能登町の人口は、年間に500人のペースで減少している。その現状を踏まえてだ」

ただ、宮内さんが込めた思いを聞くうち、浮き足立った気持ちでも居られないと感じ、気を引き締め直した。

「あなたの人柄や熱心さも、関係者にはよく伝わっているが、それは関係無い。あくまで技術者として、機械の性能を踏まえて判断した」

そう話す宮内さんが、初めて食事に行こうと誘ってくれたのは、それから1か月後のことだった。

記者は“2代目”矢波浄水場の完成を見届ける形でプラントメーカーを離れ、マスコミ業界へと出戻った。

地震発生後に連絡つかず…

2024年の元日、能登半島を襲った最大震度7の大地震。発生の報を聞き、数年ぶりとなるメールを宮内さんに送った。しかし返信は無い。

宮内さんは、現場を重んじる技術者だ。恐らく、復旧作業に携わっていて、忙しい状況なのだろうと推測できるものの、こうなると安否が気遣われる。

意を決して、宮内さんの勤める会社に電話をかけてみる。聞き覚えのある受け付け担当者の声に、どこかほっとする。そして宮内さんは無事であること、正月から能登に入りっぱなしとなり、町の担当職員とともに、水道の復旧対応にあたっていることを聞いた。

「私も今年に入ってから、宮内とは会っていないんですよ。携帯電話にかけてもいいと思いますよ」

現場で奮闘する宮内さんの姿を思い、電話をするのはやめた。

後編では、記者は思わぬ形で浄水場の〝その後〟を知ることになる。そして自身の住む愛媛に浮かび上がった震災への課題とはーー

【後編】能登半島地震の直後に現場へ…2週間ぶりの連絡で交わした会話 気付かされた”過信” そして、忘れられた“南海トラフ地震”

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