能登半島地震の直後に現場へ…2週間ぶりの連絡で交わした会話 気付かされた”過信” そして、忘れられた“南海トラフ地震”【後編】

石川県能登町で進められた数年におよぶ浄水場改築工事に、プラントメーカーの人間として携わった経験をもつ記者。元日の震災後、旧知の技術者と連絡が取れず、安否に気をもんでいた。(前編・後編のうち、後編)

思わぬ形で飛び込んだ情報

X(旧Twitter)を眺めていたところ、思わぬ形で、矢波浄水場の情報が飛び込んできた。

被災地へ応援に駆け付けている大阪市水道局のアカウント。そこには、矢波浄水場で作られた水を、給水車へ補給している様子が写真付きで載せられていた。

“2代目”となった矢波浄水場は、何度も襲来する大きな揺れにも耐え、飲料水を作り続けていた。

「プラント装置を乗せるためのコンクリートの土台は、かなり分厚く設計した。まず耐震性を考慮した。次に、海や川からそう遠くないこともあるので、津波や増水などの事態も想定している。コストはかさむし、無駄になるかもしれないが」

宮内さんの語っていた設計思想を思い出して、胸が熱くなった。そして、改めて能登の地にいる人たちの無事を願った。

暖かかった雪国の記憶

思い返すと、大学で富山に進学するなど、記者は北陸に縁が深い。

当時、初めて日本海側で迎えた冬は厳しく、生まれ育った三重と比べて、人々は寡黙に感じた。名古屋や大阪に進学した友人たちが、華やかな流行に触れている話を聞いて、ため息をつく事もあった。

けれども、北陸でできた友人に囲まれて迎えた2年目の冬は、暖かいものだった。

その中に居た石川県能登町(当時は合併前で「能都町」と呼ばれていた)出身の友人は、地元の夏祭りに誘ってくれたりもした。泊めてもらった友人の実家の窓からは、夏の空がよく見えた。セミの鳴き声と波の音、そして時々、のと鉄道・能登線の踏み切りの音が聞こえていたのを覚えている。

近くて遠い能登

被害を伝えるニュースに、見慣れた場所が映るとき、近くて遠い能登を思い、心が痛む。

我々マスコミが、被災地に対して直接的な支援をできる場面は、そう多くない。ただ、もちろん情報発信を通じて、支援に結び付けるきっかけを作ることは大いにできる。あるいは、風化を防ぐために動くこともできる。

テレビ局員として、ひとりの人間として、今能登の人たちに対してできることは何だろうか。これまでに関わってきた多くの人たちを思い出し、思いをめぐらせる日々は続く。

兵庫で出会った愛媛県警

2024年1月8日の午後。出先から愛媛に戻る道中、兵庫県の中国自動車道・西宮名塩サービスエリアに立ち寄り休憩していた。

すると、見覚えのある警察車両が次々やってきた。赤色灯を乗せた白と青色のツートーンカラーで、機動隊の特殊車両であることは、すぐにわかった。ナンバーに目をやる。愛媛県警だ。降りてくる隊員たちの中には、見覚えのある顔もあった。思わず声を掛けた。

「能登からの帰りですか?」
隊員たちは頷いた。

「お疲れ様でした」
そして、半ば無意識に言葉が続いた。
「ありがとうございました」

どこか、心に引っ掛かっていた、距離を言い訳にして、何もできずにいる不甲斐なさがあったのかもしれない。

兵庫の高速道路で、偶然に出会った愛媛県警の機動隊員らは、いつにも増して頼もしく映った。

広域緊急援助隊として、救助工作車などを伴い、1月4日に愛媛を出発して、翌5日から7日までの3日間、被害の大きかった石川県珠洲市内で捜索活動などに当った、その帰り道だったようだ。

「現場で待っている人を、自分の家族だと思え」

現場で指揮をとる幹部は、隊員たちに対して、そう呼び掛けたという。

友人の母親から言われた言葉

大学生のころ、夏祭りで訪れた能登町(能都町)。
友人の実家には、結局数日間お世話になった。
その帰り際、友人の母親から言われた言葉を今も覚えている。

「三重からこちらに来て一人暮らししていると、心細いこともあるでしょう。能登町(能都町)は、富山からは少し遠いけど、三重よりは近いもんね。いつでも実家だと思って遊びにおいで」

2週間ぶりについた連絡

元日に発生した大地震から、2週間が経過した1月15日の夕方。宮内さんから電話があった。

「浄水場は全然大丈夫!ばんばん動いてる!」

数年ぶりとなる会話。宮内さんは開口一番に伝えてくれた。

「地盤にものすごい数の杭が打ってあったから、施設は全然大丈夫」

電波状態が良くないのだろうか、電話は時折途切れそうになる。

「ここまで手を掛けて設計した施設が傷んでいたら、私が恥ずかしい」

宮内さんは、技術者らしく笑ってみせた。

地震の発生以降、矢波浄水場は重要な給水拠点として機能しており、全国から応援に駆け付けた給水車や、自衛隊の車両が、毎日何十台も水を補給するためにやって来ているという。

断水解消「これからが勝負です」

「ただ、水が無いから、こちらに泊まれる場所はない」

宮内さんは、地震発生後から毎日、片道4時間を掛けて金沢から能登町に通っているのだと明かしてくれた。午前4時過ぎに家を出て、日が変わるころに帰宅する日々だという。

「浄水場は無事でも、道路に埋められている配管などは、たくさん被害を受けている。修理に必要な部品の手配には苦労しているが、とにかく私がいなければ話は進まない」

頭が下がる思いだった。

「断水の解消に向けて、これからが勝負です」

誇るでもなく、淡々と語る宮内さん。記者に対しても言葉を向けた。

「色々なことがあるが、今やっていることがベストなことですよ。多分、やりがいは後からついてくる。そういうものです。お互い頑張りましょう。そして落ち着いたら、遊びに来てください

「災害が少ない土地」…あるのだろうか

能登半島地震により、石川県内では、15日時点で222人の死亡が確認され、今も2万人近い人たちが、学校などに身を寄せている。

記者は今「災害が少ない」といわれている瀬戸内、愛媛県は松山市に住んでいる。

確かに、2022年にこちらに来てから、社会活動に深刻な影響を与えるほどの台風や大雪などの被害も無ければ、大規模な川の氾濫などにも遭遇していない。そして大きな地震もない。

「災害が少ない」土地。
しかし果たしてそんな場所は、この国にあるのだろうか。この愛媛でも、2018年の西日本豪雨により、南予を中心に大きな被害が発生している。

災害は間違いなく“明日は我が身”だ。

例えば「南海トラフ地震」。
予測される震源から、愛媛はそう遠くない。

地層などから、これまでに90年から150年程度の周期で、繰り返し発生していることが分かっている。今後30年以内に、南海トラフ沿いで巨大地震が発生する確率は、70%程度といわれているが、今も不気味にその影を潜めている。

およそ80年前に発生した「昭和南海地震」はマグニチュード8、およそ170年前に発生した「安政南海地震」に至っては、その4倍の規模だったと推定されている。そしていずれの地震も、愛媛に大きな被害をもたらした。

忘れ去られた過去…歴史の研究者が鳴らす警鐘

「歴史的に見て『安政南海地震』程度の南海地震が"普通"であって、『昭和南海地震』はむしろ小さい部類に入ると考えられる。想定される次の地震は、『安政南海地震』クラスを想定しておく必要があると思う」

そう我々に警鐘を鳴らすのは、歴史の研究者だ。

愛媛県の南部、八幡浜市。1857年に発生した「安政南海地震」の被害が記された文献が、遍路宿に残されていた。

「大津波、浜野町まで潮あがり、町内の者、かみ山寺へ上がり」

そこには、地震発生後、約1時間後に押し寄せた津波が、町の多くを飲み込み、“かみ山寺”現在の大宝寺で、標高20mほどある場所まで津波が押し寄せたと記録されていた。

「愛媛県の南予地方沿岸部での津波被害が記録として、よく残っている。宇和島市でも、宇和島城下で、現在のJR宇和島駅の手前まで津波が来たという記録が残っている」

ただ、それもすでに170年前の過去のこと。被害の規模を知る人は、地元であっても多くはないのが実情だ。歴史の研究者は、我々の”気の緩み”について指摘する。

「愛媛は災害が少ないという言われ方をする。でもそれは、歴史の事実を忘れ去って、忘却したあとに生まれてきた誤解と言える」

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