AIの教育活用に踏み出すシンガポール…世界トップ級の学力、生き残りに懸ける カメラで児童の動きを検出、中国技術の台頭がもたらすものは「監視」か「安全」か

算数のAI教材を使うレークサイド小学校の児童ら=2023年11月、シンガポール(共同)

 世界トップクラスの学力を誇るシンガポールが人工知能(AI)を活用した教育に踏み出した。競争力の維持が国家生存の柱とするシンガポールは、AIによって教師の負担軽減など学校現場の効率化と、生徒の理解増進を目指す。ただ、アジアで広がりつつあるAIの教育現場での活用にはプライバシーや監視の問題もつきまとう。(年齢は取材当時、共同通信シンガポール支局 角田隆一)

 ▽AIで個人に最適化

 昨年12月初旬、黄色い制服の子どもたち約30人が一斉に廊下に駆け出し、移動式キャビネットからノートパソコンを取り出した。ヘッドセットのマイクを着けた女性教師が「自分で今日学ぶ項目の目標を設定してください」と英語で語りかける。華人、インド系、マレー系の子どもたちがパソコンを開くと、一斉にログインし始めた。

 子どもたちはシンガポール西部の公立レークサイド小学校の5年生。シンガポールは昨年6月から5年生を対象に算数の一部授業で、機械学習と呼ばれるAIの技術で学習データを分析させ個人に応じて問題や進度を最適化する学習システム(アダプティブラーニング)を導入した。

AI教材を使うノートパソコンを取りに行くレークサイド小学校の児童ら=2023年11月、シンガポール(共同)

 この日は小数と計量単位を学ぶ授業だ。子どもたちは自分で3段階から難易度を選び、AIがそれまでの学習データなどを反映し問題を出す。

 「0・062メートルは何センチですか」。パソコンに問題が表示される。イザベルさん(11)は「やる気にさせてくれる。もし問題を間違えたら、(理解を促す)簡単な問題を出してくれる」と話す。解答を示す画面には、答えに至る考え方が図解などで示されている。自分のペースで学べるので快適という。

 算数のシンシア・ゴー教科主任(47)は、教師が採点時間を節約でき、子どものつまずきをデータで取れ、授業内容や個別指導を充実させられる利点があると語る。ゴーさんは「子どもとのやりとりが重要となる。AIが教師に入れ替わることはない」と話す。

算数のAI教材で問題を解く児童の質問に答えるレークサイド小学校のシンシア・ゴー教科主任(右)=2023年11月、シンガポール(共同)

 ▽教師も変化迫られる
 シンガポール政府は国家AI戦略を策定、教育現場でAI活用を積極的に進める構想を持つ。基本方針は「技術で変化する世界に備えるための技術を活用した教育」。資源がない人口小国で、「変化に対応しなければ国の存立が危ういという危機感は常にある」(地元の研究者)。有力な海外企業のアジア拠点を誘致し、成長のエンジンとしてきたシンガポールにとって教育は生存の要だ。

 15歳の生徒を対象に、経済協力開発機構(OECD)が2022年に実施した学習到達度調査(PISA)で、シンガポールは81カ国・地域中、数学的応用力、読解力、科学的応用力の3分野で首位を獲得した。

 チャン・チュンシン教育相は昨年9月の教育関係者向けの講演で「技術こそがわれわれを速く遠くへ連れて行ってくれる」と強調。今後、英語の文法やつづりの学びを助けるAI教材などの導入を増やしていく方針だ。

 教師も変化を迫られている。レークサイド小学校のチャン・コクホンIT部門長(42)は同僚教師約120人のIT教育係を担う。自身も「チャットGPT」を使い、算数で「平均」の概念を説明する際のプリントを作るなど試行錯誤を重ねる。

レークサイド小学校でデジタル技術を活用したカリキュラムを考案するチャン・コクホンIT部門長(右)=2023年11月、シンガポール(共同)

 シンガポールでは公立学校ごとにチャンさんのようなITの運用の責任者を置く。政府は機器の購入などの予算を与え、学校ごとにAIやデジタル技術を活用した独自の教育カリキュラムの作成を促している。レークサイド小学校では物語創作をした後、プログラミングでアニメをつくる授業や、ロボットをプログラミングで動かす授業などに取り組んでいる。

 チャンさんは「子どもの成長という目標は変わらないが、(AIの出現で)教師の定義は変わる。教師と言うよりも教育家(エデュケーター)になるのではないか。われわれも学び続けなければならない」と話した。生徒のモチベーションを引き出し、学び全体をコーディネートすることが重要になるとみる。

おしゃべりしながら算数のAI教材を学ぶレークサイド小学校の児童=2023年11月、シンガポール(共同)

 ▽漏洩リスクや先入観も
 アジアでは中国、台湾などでも教育現場へのAI導入が進むが課題もある。例えばデータの取り扱いだ。シンガポールではAIやオンライン学習で蓄積された子どものデータは、転校した際や上級の学校へ進学した際に引き継がれる。学習データは教材の改善などに使われるが、漏洩リスクもある。

 蓄積されたデータが生徒の能力への先入観や偏見を大きくしてしまう可能性もある。香港教育大学のルイ・チーキット教授は「教育には生徒の未来がかかっているが、AIの意思決定は説明不能、理解不能なこともある。政府は政策や規制で、こうしたリスクに対処しなければならない」と指摘した。

 ▽監視か、安全か
 AIの活用は教材だけではない。アジアでは学校運営に適用する動きも出てきたが、プライバシーの問題と隣り合わせだ。

 「これは監視カメラじゃない。アカデミック(教育)カメラだ」。ダニエルと名乗る中国系の説明員が早口の英語でまくし立てた。シンガポールで昨年11月に開かれた展覧会を訪ねたときのことだ。AIなどの先端技術を学校運営や学習に用いる「教育テック」に関わるスタートアップや大手企業が世界各国から集まっていた。

 ダニエルが説明していたのは中国の監視カメラ大手、杭州海康威視数字技術(ハイクビジョン)の製品だ。学校の外や入り口のカメラで不審者を警戒するのは序の口だ。

自社製品の特徴を語るハイクビジョンの説明員=2023年11月、シンガポール(共同)

 学校中にカメラやセンサーを設置し、事前に生徒らの顔画像をシステムに登録する。画像認識技術を用いたAIを通じ、生徒の居場所を特定できるほか、急に生徒が集まりだすなど特異な動きを察知できる。ダニエルは「モニターを見ていれば、昼休み中でも生徒が多く集まっている場所を把握できる。いじめや事故を未然に防げる」と話す。

 教室の前に設置されたカメラは授業中も目を光らす。出欠確認に加え、生徒の顔の動きや居眠りといった動作をAIで検出し、学習態度を観察する。「生徒の集中度合いをデータ化し、授業の改善に役立てられる」。ダニエルは自信満々に自社製品の優位性を語り続ける。行き過ぎた監視ではないかと問うと、「安全のためだ」と迷いはない。

 ハイクビジョンは中国政府直轄の企業集団の傘下にある。新疆ウイグル自治区で、中国政府の抑圧政策に反発する少数民族の大規模監視システムの構築で重要な役割を果たし、米国政府から禁輸措置を受けている。

ハイクビジョンの展示ブースと稼働中の「教育カメラ」=2023年11月、シンガポール(共同)

 弾圧と監視で培われた緻密な技術を教育現場で使う不気味さに戸惑う。ダニエルによると、コストの高さから導入先は学費が高いアジアや中東の私立校やインターナショナルスクールが中心という。

 会場で講演をしていたシンガポールの教師は「休み時間中の会話や遊び相手などの子どもの動きをデータ化することで、子ども同士の関係が分かるようになるかもしれない。孤立した子どもを把握できるようになる」と技術の発展に期待を示していた。トルコの教育関係者は子の安全を願う親の気持ちは理解できるとして、「いじめの問題はわが国でも深刻だ。ウイグル弾圧に使われた技術でなければ、使ってもいいかもしれない」と話した。

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