うそをつくと選手には分かっちゃう。「優勝請負人」工藤公康さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(33)

現役最後となった2010年シーズンに向け、2月のキャンプで練習する工藤公康さん=日南・南郷

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第33回は工藤公康さん。リーグ優勝14度、日本一は11度を数えた左腕で、ソフトバンク監督としては日本シリーズを5度制した「優勝請負人」です。知的探究心の旺盛さは少年時代の経験に基づくと明かしました。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽子どもたちを肩、肘の障害から守るために

 2022年4月に筑波大大学院の博士課程に進みました。今後の研究を子どもたちの障害予防につなげていければいいなと思っています。(11年の現役引退から15年のソフトバンク監督就任までの)3年間に、肩や肘の検診を30年以上されている方や、全国で頑張るお医者さんたちとお話をさせていただきました。なかなか障害が減らない、野球離れというところで、野球界の未来を守ることを考えれば、子どもたちを障害から守り、野球をやってもらうのが、とても大事。半年や1年も好きなことができないとか、痛みを抱えてスポーツをやるのは良くない。障害予防につながる研究をして、何か子どもたちや指導者へのアドバイスができないかという思いがありました。

1987年10月の日本シリーズ第2戦で巨人打線を3安打完封した工藤公康さん。このシーズンは2度目の最優秀防御率に輝いた=西武

 難しいですよね。どのぐらい投げたら痛めて、どのぐらい投げている時は大丈夫という境界線って。スポーツは確かに勝負事って付いてくるんですけど、やっぱりチームとして勝ちたいという思いが強すぎると、どうしても無理をしてしまう。無理しすぎて障害に至らないために検診をちゃんと受け、少し休養の時期をつくってあげることで、また復帰はできます。野球って、どのポジションでも必ず投げる。投げないのは指名打者ぐらいしかない。守っている限りはボールを投げるんでね。何か自分が介入して、少しでも子どもたちの助けになればと思っています。大学に所属していないと、そういう研究もなかなか難しいところがあります。肩、肘のことを勉強し、論文や参考文献、先生たちの活動とかを通して学んでいきながら、その中でやりたいことをしっかり把握していきたいです。

1999年7月のロッテ戦で完封勝利を収め、王貞治監督(左)に出迎えられる工藤公康さん。この年は最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得し、ダイエーの球団創設初の日本一に貢献した=福岡ドーム

 ▽早く野球をうまくなるために少年時代から求めていたもの

 勉強好きな理由ですか? 話せば長くなるんです。父親が厳しかったので、野球をやれと言われてやったんですけど、子どもの頃は嫌いだったんですよ。父親に逆らえないから、やるなら短期間で早くうまくなる方法を考えました。プロ選手の投球フォームの解説を見たりとかしながら、いいところをまねして。早く覚えて早くうまくなって、その空いた時間を他のことに利用したいというのがあったんです。他の人が1年かかることを1カ月で、1カ月かかるところを1週間で、1週間のことは1日で。その効率を子どもの頃から求めていたっていうのはあります。

2004年8月のヤクルト戦で41歳の工藤公康さんはプロ初本塁打を放った。この試合で通算200勝を達成。40歳を過ぎての到達は工藤さんが初めて=東京ドーム

 (練習について)何にしてもやってみるんですよ。やらないと良いか悪いかも分からないので。やってみて、どうしても自分の感覚で良くならなかったら、捨てちゃうよりは、それも(知識として)一つの引き出しに入れて、また違うことをやってみる。技術系のことに関して聞いたことは全部引き出しに入れて、しまっておくんですよ。いろんな引き出しができればできるほど、自分の練習のバリエーション、技術を習得するためのバリエーションが増えるんです。
 ストイックになったのは結婚を機に変われたっていうところもあります。正直、結婚するまでは自分のやりたいように、年齢でいうと29、30歳ぐらいまでは野球やりながら遊ぼうと。成績を出して、この球界で自分がやれるって思えてからですけどね。結婚したら真剣に、また野球をやろうと。僕の育った家庭環境って、寂しいとかひもじいとかっていうのがありました。そういう思いを自分の子どもにさせないために、そのぐらいは稼げるような人間になっていこうと考えていたんです。だから自分自身も変われました。当時は肝臓が悪く、お医者さんに「このまま飲み続けて遊び続けてたら死ぬよ」って言われたというのもありました。いろんなものが重なって変われたんじゃないかなと思います。

2009年7月のヤクルト戦で救援登板した工藤公康さんは通算224勝目を挙げた。これがプロ野球生活最後の勝利=甲府

 ▽お金は少なくてもいいから3年間のメジャー契約を取って

 西武での13年間で110勝ちょっと。ダイエー(現ソフトバンク)で150勝目で、ジャイアンツで最終的に200勝でした。30歳を過ぎてベテランになっていくと球が遅くなる、技巧派になるみたいな話を、昔は当たり前のようにみんなが言っていたと思うんです。僕は自分のトレーニングを考えた時に、いろんな人から「人間の体ってそんなに弱くないよ」と教えてもらって理解できました。(投球スタイルを)変える必要はないのも分かりました。変えないために何をしたらいいのかというと、やっぱりオフからキャンプぐらいまでは厳しいトレーニングを自分に課しました。シーズンに入ったら中6日で回らなきゃいけないんで、その6日の中でしっかりと調整したり休んだりしていけば1年間ちゃんと持つと。そういう体をオフの間につくっていきました。オフの休みは1週間とか10日ぐらいしかなくて、あとはずっとトレーニング。シーズン中に投げている時よりも苦しい練習をしておくと、シーズン中が楽なんですよ。それがルーティン化していき、最終的には現役を長くできたっていうところです。

2020年11月の日本シリーズで4年連続の日本一に輝き、記念写真に納まるソフトバンク監督時代の工藤公康さん=ペイペイドーム

 1999年ですかね。アメリカに行こうと思って代理人も決めました。とにかく3年間はやりたいと、お金は少なくてもいいから3年間のメジャー契約を取ってほしいという話を代理人にしたのを覚えています。まあ結果的に、それがなかったんです。3年分のお金を出してくれる球団もあったんですよ。ただ、3年のメジャー契約はできないって。よくよく契約ってどんなものか後で知ったら、なるほどなと。成績を残せていないのにメジャー契約をするっていうのはね。成績を残せれば当然また1年、また1年っていうのができたんでしょうけど。まずはメジャーで3年挑戦できる権利を得たいって考えてしまった部分もあり、そこがうまくいかなかったと思うんです。
 大リーグの魅力というよりは、システムとか練習とか人の考え方とか、いろんなものを知りたいっていう思いはありましたね。向こうの厳しさ、例えば飛行機で移動して時差とかどうするのか、夜中に飛んで朝着いて夜のゲームの時はどう練習しなきゃいけないか、施設も含めていろいろ知りたかったんです。

 ▽選手たちに対して独りよがりな発言をしないように

 監督をやっている時は選手が少しでも良くなるために、あえて厳しいことも言わなきゃいけませんでした。やっぱりプロなので競争の世界も知ってもらわなきゃいけない。悩んでいる選手にアドバイスができるように常日頃から見ておかなきゃいけないのもあります。精神的に成長してほしいなと思って、ある程度自分でやりなさい、考えてきなさいっていう部分も必要になるので、それはいろんなTPOに合わせました。
 今の選手たちはすごく真面目なんですけど、真面目であるがゆえに、ちょっと打たれると自分の考えが正しいんだろうかとか、このままやっていって大丈夫なのかと不安に陥るケースがあります。そういう時は「継続ってすごく大事なことなんだよ」って話をします。彼らを理解してあげると何を望んでいるのか分かるんです。それがなかなかできないと、どうしても(指示が)独りよがりになってしまうので、そうならないように。監督7年間で学んだのは、そういうところですね。

インタビューに答える工藤公康さん=2022年8月撮影

 僕ね、監督として選手たちに隠してることが、そんなになかったんですよ。何でかって言うと、選手たちに何か聞かれた時に、うそをついてると分かっちゃうんですよね。「ああ、監督やコーチが何か隠してるな」って。だから、なるべく僕は本音を言いました。もうちょっとこうした方がいいとか、脚が悪ければ今日はやめた方がいいと。この状態で試合に出て、また大きなけがをしましたとなると、しょうがないでは終わらない。「君がいなくなることがチームにとってどれだけの戦力ダウンになるのか考えてほしい」と正直に言います。トレーナーが一緒にいたとしても、担当のコーチがいても同じことを言います。だから選手に僕の思いは伝わるんです。絶対に何かね。

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 工藤 公康氏(くどう・きみやす)愛知・名古屋電気高(現愛工大名電高)からドラフト6位で1982年に西武入り。ダイエー(現ソフトバンク)巨人、横浜(現DeNA)再び西武と移籍を続け、2011年の引退までに計11度の日本一を経験した。名球会入り条件の200勝は04年8月に到達。通算224勝で、実働29年は歴代1位タイ。15年からソフトバンク監督を7シーズン務め、5度の日本一に導いた。63年5月5日生まれの60歳。愛知県出身。

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