外国人助っ人初のノーヒットノーラン&沢村賞を達成した阪神のエースとは!?【プロ野球助っ人外国人列伝】

助っ人外国人列伝/阪神投手編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ投打の名選手各5名と、印象深い選手を投打から各1名紹介する。

外国人助っ人初のノーヒットノーラン&沢村賞を達成!ジーン・バッキー

【投手1位】ジーン・バッキー

〈NPB通算データベース〉
・勝利 100勝
・敗戦 80敗
・防御率 2.34

野球を続けるためにハワイから来日

「史上最強助っ人」と謳われたランディ・バースの影響もあり、阪神の助っ人外国人というと打者のイメージ強い。助っ人投手はジェフ・ウィリアムスやロベルト・スアレスなど最近のリリーフ陣が思い起こされるが、古くを遡ると第1位は1960年代のエースとして活躍したジーン・バッキーだろう。

フランス系移民の家系で生まれたバッキーの野球人生は、1957年のマイナーリーグから始まった。1962年、移籍先のハワイの球団で日系人選手が日本で活躍して高待遇を受けていることを知り、スポーツ新聞記者の推薦で阪神の入団テストを受けることになった。当時、バッキーは結婚したばかりであり、野球を続けながら少しでも良い年俸を求めていたのだ。

巨人と阪神を何度も優勝に導いた藤本定義監督が見守るなか、バッキーのコントロールは定まらず、球種も少なかった。だが、名将・藤本は磨けば光る原石を見逃さず、バッキーの阪神入団が決定する。

1962年のシーズンは一軍と二軍を行ったり来たりして0勝、翌年も8勝と助っ人外国人としては心許ない成績だったが、バッキーは沢村賞を3度受賞した名投手の杉下茂に鍛えられながら少しずつ進化を遂げていたのだ。

ちなみにこの頃のバッキーは、呼び寄せた妻と家賃13000円の古アパートに住み、奥さんのサンドイッチを抱えてマウンドに立っていた。

外国人助っ人初のノーヒットノーラン&沢村賞

努力を続けたバッキーが日の目を見たのは、来日3年目の1964年。杉下の特訓で下半身を強化したバッキーの制球力が格段に上がり、通算320勝を挙げた小山正明からスライダーを伝授されことで投球レベルが格段に上がる。

もともと191センチの身長と長い腕を生かしてスリークォーター気味の変則フォームは打ちにくく、重いストレートは力強かった。

そこにキレ味抜群の変化球と制球力が伴ったことでバッキーが大化けしたのは自然な流れだったのかもしれない。この年は29勝を挙げさらに防御率も1.89と優秀な成績を収めた。

やはり藤本監督の目に狂いはなく、バッキーは村山実との二枚看板として勝ちまくり、1964年のリーグ優勝に貢献している。日本シリーズでは南海のジョー・スタンカと投げ合って力負けするも、最多勝、最優秀防御率、沢村賞のタイトルを受賞する充実したシーズンを送った。以降のバッキーは1965年に助っ人外国人初となるノーヒットノーランを達成するなど快投を続け、5年連続2桁勝利を挙げている。

なお、当時から阪神-巨人は伝統の一戦として盛り上がりを見せた試合だった。バッキーも巨人戦には特に力が入ったようで、王貞治や長嶋茂雄を相手に闘志むき出しに快投したことが印象深い。

1968年9月の巨人戦では、王に対してバッキーが2球連続で危険球を投じたため、巨人のコーチだった荒川博が襲いかかり、バッキーも殴り返す大乱闘を演じたこともあった。

致命的だった乱闘劇での骨折

両軍入り交えてのこの乱闘劇はバッキーと荒川が警察に事情聴取を受ける問題に発展した。さらにバッキーは右手親指を複雑骨折してシーズンを棒に振り、翌シーズンに近鉄へトレードされてしまう。

この骨折は思いのほか重症だったようで、近鉄では1勝もできず現役を引退している。

アメリカから長らく離れて野球人生を送ったバッキー。故郷に戻ってからは小学校の教師や農場経営に携わる。1983年に行われた阪神-巨人のOB戦は、内野安打で出塁したバッキーが一塁手の王と握手を交わし、「ミンナ、トモダチ」と語りかけたという。

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