「一生分の悲しい顔を見た」 映画監督、ライダー…無数の顔を持つ男の原点 震災の記憶、今伝えなければ

阪神・淡路大震災直後の神戸市長田区の町並み(近兼さん提供)

 親を失った子を見た。子を失った親も見た。1995年1月17日とその後の数日で「一生分の悲しい顔を見た」と近兼拓史(ちかかねたくし)さん(61)=兵庫県西宮市=は思う。

 同県丹波市唯一の映画館「ヱビスシネマ。」支配人、映画監督、50ccバイクの世界最速ライダー、ラジオパーソナリティー、雑誌記者…。無数の顔を持つが、いずれの活動の原点にも阪神・淡路大震災がある。

 「持っていた価値観がひっくり返った」。29年前、地震の起きた午前5時46分、近兼さんは神戸市長田区の自宅マンションにいた。家族はみんな無事だったが、近くの実家や親戚宅の長屋はぺしゃんこにつぶれた。

 しかし優先したのは生活再建ではなく、ほかの被災者たちの支援だった。「目の前で苦しんでいる人の手を放すわけにいかない」。地震から半年後、ボランティアで西宮市で防災情報を発信するミニラジオ局を開局。熱心にやるほど貧乏になり、貯金が底を突いたこともある。

 その後も阪神・淡路の教訓を生かし、東日本大震災や熊本地震などの現場でボランティアに身を投じた。一方で、自分の詳細な被災体験は長く語ってこなかった。特に地震直後の長田のまちで見た凄惨(せいさん)な光景については口が重かった。

 「つらい経験をした人ほど口をつぐむ。亡くなった人やその遺族を考えると自分は幸せ。ひどい目にあい、今も黙っている人がいる中で、僕なんかが語るべきではない」

 近兼さんはずっとそう思っていた。今年の元日までは-。

 能登半島地震が起きた1月1日、阪神・淡路をくぐり抜けた父が87歳で亡くなった。昨年秋から入院していた。地震の速報の直後、容体の急変を知らせる病院からの電話があった。

 母は21年に他界。自分も気付けば還暦を迎え、孫が4人もいる。多くの被災者が鬼籍に入る中、震災29年を前に親からバトンを渡された気がした。「自分が語らないとあの日の出来事がなかったことになるんじゃないか」と考えるようになったという。

 それが今回取材に応じた理由だ。今でも震災を語るのに自分が適任とは思わない。「でも、伝えておかないといけないこともあるのかなと」と近兼さん。

 がれきの下から生きて救い出せなかった命があった。「いい人ほど亡くなり、好き放題生きていた自分が生き残った」。激震の瞬間を振り返る近兼さんは、犠牲者たちに対する罪悪感と格闘しているように見えた。

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 1995年1月17日火曜日の午前5時46分、兵庫県南部で国内史上初の震度7の地震が観測された。死者6434人、負傷者4万3792人、住宅被害約64万棟。当時、近兼拓史さんは激震と火災で甚大な被害を受けた神戸市長田区にいた。記憶の継承のために口を開いた近兼さんの震災体験とその後の人生をたどる。(那谷享平)

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