書かれなかった手紙

 谷川俊太郎さんに「真犯人に」という昔の詩がある。〈あなたは臆病者にちがいないから/手紙を書きなさい その時が来たら/歴史に宛てて/あなたの十五年間の油汗で〉▲戦後最大の冤罪(えんざい)事件の一つ「松川事件」が起きたのは1949年。東北本線でレールの一部が壊されて列車が転覆し、3人が死亡したが、逮捕された容疑者は裁判で全員無罪になった。詩は事件から14年後、真犯人不明のまま時効が1年先に迫った頃に書かれている▲手紙を書きなさい。そう告げても、残念ながらかなわない。企業を狙った連続爆破事件の一つに関わったとされる桐島聡容疑者(70)を名乗る男がきのう、神奈川県内の病院で死亡した▲容疑者本人だとすれば49年間、逃亡を続けたことになる。偽名を使って工務店に住み込みで働き、給料は現金で受け取り、健康保険証も運転免許証も持たなかった▲末期がんで「最期は本名で迎えたい」と話したという。語るべき肝心のこと、事件のいきさつについて、捜査関係者にどれほど語ったのだろう▲詩はこう続く。〈事実に帰りなさい ただ事実だけに〉。別人として生きた半世紀の間に事実が風化したとすれば、悔しいかな、はかない半生というほかない。脂汗をインクにして、手紙を書かずにいられない夜はなかったか。(徹)

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