矢岳炭鉱閉山から62年 佐世保市小佐々町の歴史を支えた石炭積み込み施設「ホッパー」とは

積み出しのスピードが格段に上がり、町の繁栄を支えた石炭積み込み施設=佐世保市小佐々町

 建造物はホッパーと呼ばれた。全長約70メートル。外壁がはがれ、むき出しになった鉄筋。建物を覆う伸び放題の雑草。今のたたずまいから最盛期の活躍を想起することは難しいが、間違いなく、町の繁栄に欠かせなかった。
 長崎県佐世保市小佐々町の楠泊漁港。建造物は「石炭積み込み施設」。日本が満州事変、日中戦争と突き進んでいた1937年ごろの建設とされる。
 ホッパーが変えたのは作業の効率化だ。同町最大の矢岳炭鉱から炭車で運んできた石炭を、漏斗状の上の部分から入れて貯蔵。下の口を開けると石炭が流れ落ち、港につながるコンベヤーで船に積み込んだ。人の手で船に乗せていたそれまでと比べて積み出しのスピードが格段に上がった。
 かつては数多く見られた炭鉱を象徴する施設だが、現存数は少なくなっている。市文化財審査委員長の久村貞男さん(76)は「これほどの規模のものが残っているのは県内唯一」とその価値を強調する。
 小佐々を含む北松浦半島は、北松炭田と呼ばれた。一角を占めた小佐々には大小の炭鉱が開かれた。矢岳炭鉱からは燃料よりも製鉄に向いた強粘結炭が採掘され、小佐々町郷土誌には大正から昭和初期にかけての様子をこう記す。
 「非常時になるごとに石炭の需要は多く、町内の炭鉱は開発が進み出炭量が多くなった」「貴重な原料炭として従業員は産業戦士と呼ばれて増産に励んだ」
 国を富ませるために欠かせなかった製鉄。矢岳炭鉱はその一翼を担った。
 町も繁栄していく。郷土史家の朏(みかづき)由典(ゆうすけ)さん(75)=北松佐々町=と小佐々町郷土誌によると、規模が大きい周辺の炭鉱のひと月の出炭量が5千~7千トンだったのに対し、矢岳炭鉱の最高は1万3千トンと突出していた。多くの従業員が県外から入り、県下で屈指の大きな町になった。出炭量に応じた税金が町に入り、ボーナスが出れば町内の店は鉱員であふれた。炭鉱あってこその町だった。
 敗戦後も石炭産業は戦後復興をけん引したが、エネルギー革命の波にのまれて相次ぎ閉山。矢岳炭鉱も1962年に62年間の歴史に幕を下ろした。
 閉山からも今年で62年。炭鉱が稼働した期間とちょうど同じだけの年数が流れる。炭鉱を失った後は人口が減り、ホッパーが炭鉱の名残だと知る人は少なくなった。だからこそ、地元男性(84)は「炭鉱の歴史を伝えるためにもずっと残してほしい」と望む。

現存数は少なくなり、これほどの規模のものが残るのは珍しいという=佐世保市小佐々町

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