阪神・淡路で出稼ぎ中の父犠牲 能登で実家全壊、また奪われた 今は耐える、未来を神戸に重ね

阪神・淡路大震災で父の一男さんを亡くした惣田亜喜夫さん。能登半島地震では思い出の詰まった実家(後方)が全壊した=石川県珠洲市正院町平床(撮影・笠原次郎)

 石川県珠洲(すず)市の惣田亜喜夫さん(61)は1995年の阪神・淡路大震災で神戸にいた父親を失った。「風化させたくない」と地元で震災を語り続けてきたが、今年元日の能登半島地震では自宅が大破し、穏やかな暮らしはまたも奪われた。地震から1日で1カ月。いつか神戸のように能登の町も復興する。今はそう信じて避難生活に耐えている。(高田康夫)

 惣田さんの父、一男さん=当時(62)=は夏は農業、冬は出稼ぎに行く生活を長く続けていた。29年前の1月17日は、出稼ぎの蔵人として働いていた「剣菱酒造」(神戸市東灘区)の蔵が全壊。一男さんらが下敷きになった。

 すぐに神戸へ向かった惣田さん。遺体が並ぶ体育館には、すすり泣く声が響いていた。思い出すのもつらい記憶だが、機会があるたび地元の新聞などに語ってきた。

 「おれが関東大震災を知らんように、今の若い人には阪神・淡路大震災が分からんでしょ。だから嫌な時でも取材を受けてきた。風化させたくないという思いだった」

 2020年ごろから群発地震が続いていた能登半島。昨年5月には珠洲市で震度6強の揺れがあった。惣田さんの自宅も被害を受け、屋根などを修理。「(昨年5月の地震は)100年に1度の地震と聞いたから、もう地震に遭うことはないと思っていた」という。

 今年の元日。家には4世代の家族9人が集まっていた。ごちそうを用意し、惣田さんら男4人で酒を飲もうとしていたところで「ドン」と突き上げられた。20年ほど前に建てた家はどうにか持ちこたえ、家族の命を守ったものの、窓ガラスが割れて傾き、住める状態ではなくなった。

 父が建てた築65年の実家は全壊。「身長を記した柱の傷も昔のビデオテープも、思い出はみんながれきの下だ。どこから手を付けていいか分からない」

 道路はふさがれて孤立状態になり、車中泊を余儀なくされた。雪を鍋に入れ、たき火でぬるま湯にして顔を洗った。看護師の妻は勤め先の病院に歩いて向かった。

 地震3日目に道が1本通り、86歳の母親を長男家族が住む金沢市に避難させた。惣田さんらは近くの避難所に身を寄せ、車で息子や親類宅に風呂を借りに行く日々だ。地元からいったん離れる2次避難も勧められるが、仕事のある妻を置いては行けない。

 地震後に訪れた金沢市はすでに日常が戻っていた。「おらっちゃ(私たち)ひどい目に遭ってるのに、わっちゃ(あなたたち)は普通の生活でいいな、と。悔しかった。なんで珠洲ばかりこんなんになるんか」

 被災者向けに賃貸住宅を借り上げる「みなし仮設住宅」を申請したが、暮らせるのは最大2年。その後、どうしたものか。「頭の中がこんがらがっている」

 先の見えない暮らしの中で、ふと頭をよぎるのは神戸のこと。阪神・淡路大震災は来年で発生30年になる。次の1月17日は神戸を訪ねて手を合わせ、復興した街を見てみたい。能登の未来を重ね合わせて。

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