被災地の二八月

 江戸の昔、2月と8月をひとくくりに呼ぶ「二八月(にはちがつ)」という言葉があったという。旧暦2月は今でいう温帯低気圧が勢いづき、旧暦8月は台風が暴れる盛りで、天候の荒れる頃をそう呼んだ▲「二八月に思う子(大事な人)を船に乗せるな」といった格言も残っている。人になぞらえた「二八月荒れ右衛門」という“呼び名”もあったらしい▲新暦の2月も、心配の種は尽きず、用心が欠かせない時期なのかと、能登の「今」を見て思う。「きょうから2月」よりも「元日の地震から1カ月」という方がふさわしいだろう。石川県では今も1万4千を超える人が避難生活を送っている▲1991年の雲仙・普賢岳噴火災害ではどうだったのかと、昔の本紙を探す。6月3日、大火砕流が多くの命をのみ込んだ。1カ月後も火砕流は頻発し、雨で土石流まで発生して〈火責め、水責めに苦悶(くもん)〉と報じている▲大火砕流から3カ月後、島原市体育館ではなおも〈73人が不自由な暮らしを余儀なくされている〉。3年たっても800世帯が避難生活を送っていた▲能登では少雨や雪解けでも土砂災害の恐れがあるという。「荒れ右衛門」の災害は続き、避難も続く。同じように、心配と用心が尽きない「二八月」の時を長く過ごした長崎県から、再生の願いと支援を届けたい。(徹)

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