政変3年、大分県内のミャンマー人は6倍以上に 中津、別府、宇佐に多く【大分県】

勉強中の日本語でノートに思いをつづったミャンマー人留学生。「国民が強く求めた民主主義が2021年で終わりました」と記した=1月30日
県内に住むミャンマー人の人口
ミャンマー

 ミャンマー国軍が民主政権を倒したクーデターから1日で3年になった。県内に住むミャンマー人は政変以降に急増。県の統計によると、2020年12月末の219人から、23年6月末には1375人と6倍以上になった。県や支援関係者は、軍政下の治安・経済の悪化を理由に以前からの在留者が滞在を続け、新たな入国者も加わっていることが要因とみている。

 特に多いのは中津、別府、宇佐の3市。各市のデータによると、在留資格は、出入国在留管理庁が情勢不安を理由に認めている「特定活動」と、「留学」が大半を占める。

 中津市は県内で最多の730人(昨年12月末)。このうち9割超の680人が「特定活動」だ。市総合政策課は「市が受け入れを進めたわけではなく、自然に集まった」と話す。

 市内でミャンマー人コミュニティーの世話役を務める同国出身のトンアウンチョさん(31)は、クーデター以前から日本で働いていた人が中津市に流入していると指摘する。自動車関連工場で一定の給与水準を期待でき、都市部と比べて生活費が安いためだという。

 「母国の家族や民主派組織にお金を送りたい人らが、名古屋や大阪、沖縄など各地から引っ越してきている。人材派遣会社を通じて働いている」と明かす。

 入国時の在留資格の期限が切れた後、政変のため帰国せず「特定活動」が認められた人が多いとみられる。

 別府市は316人(今年1月30日)のうち、8割超の269人が「留学」。市内で学ぶ複数の学生は「母国は学べる環境にない。日本なら働いて仕送りもできる」と述べた。

<メモ>

 ミャンマー国軍は2021年2月1日にクーデターを起こし、総選挙で勝利を収めた民主派指導者アウンサンスーチー氏の政権を倒した。日本の出入国在留管理庁によると、各地で抗議デモが活発化し、国軍や警察による発砲などで市民が死亡した。同庁は情勢不安を理由に「緊急避難措置」として、日本での在留や就労を認める「特定活動」の在留資格を希望者に与えてきた。

■後ろめたさ抱え、日本で未来のため学ぶ

 ミャンマーのクーデターで母国を離れた若者たちが、別府市内の大学で学びを続けている。国軍との間で続く戦闘に生死を顧みず参加する知人、厳しい情勢下で暮らす親兄弟…。安全な日本での留学生活に「後ろめたさ」を覚えつつ、心を決めて机に向かう。「私自身と家族、そして、いつか民主化した国の未来のために」―。

 別府溝部学園短期大で日本語と介護を学ぶ20代のルパーさんは2021年のクーデター発生時、最大都市ヤンゴンの医療機関で働いていた。非武装デモに加わり、一緒に抗議していた人が殺されるのを見た。

 治安と経済は悪化し、明日さえ分からない。「母と妹との暮らしをどうやって支えていこう」。周りの人も国を出ていく。働きながら将来に役立つ技術を学ぼうと来日した。学業の合間にコンビニエンスストアで働き、家族に送金する。

 同級生のニンさん(20代)も「自由のない生は、死と同じ」とデモに参加した。20年の総選挙では民主政権に投票。民意が踏みにじられたのが悔しかった。

 クーデター後、友人が殺された。手を失った人もいる。平和が訪れた時、国には身体障害を負う人があふれるだろう。「日本の介護現場は進んでいる。技術を身に付け、ミャンマーの未来の役に立ちたい」

 一緒に学ぶレーさん(20代)は家族を国に残し、卒業後は日本で働く決心を済ませている。「私はわがままかも。逃げてしまった気もする。でも、ここで頑張らないと」と話す。

 立命館アジア太平洋大(APU)の20代2人はヤンゴンの別々の大学で経済などを学んでいたが、新型コロナウイルス禍で中断。そこにクーデターが追い打ちをかけた。学習の機会を追い求め、奨学金を得られる日本への留学を決めた。

 親族が戦闘に加わっていることなどを思うと「今、遠く離れた場所で勉強していることに罪悪感、恥ずかしさを覚える時がある」と2人。「でもミャンマーにいても役には立たない。ここなら働いて民主派勢力の支援もできる」。勉学に打ち込みながらキャリアを描きたいと意気込む。

 両大学によると、ミャンマー人留学生はクーデター後に増え、現在計270人が在籍する。APUは241人(昨年11月1日時点)、別府溝部学園短期大は29人(今年1月29日時点)。

 =学生はニックネームで表記=

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