日本代表も苦戦した…強敵イランが産んだ「最強ストライカー」ベスト5

AFCアジアカップの準決勝で日本代表と対戦することになったイラン。中東地域の強豪として長い間力を見せている国であり、数年前まではアジアで最もFIFAランキングが高いチームであった。

今回はそんなイランが産んだ「最強のストライカー」を5名選んでみた。

アリ・ダエイ

イラン代表成績:149試合109ゴール

イランサッカーの歴史上最高の英雄といえるアリ・ダエイ。代表での成績はなんと149試合で109ゴールという圧倒的なものであり、2021年にクリスティアーノ・ロナウドが破るまで長く世界最多得点記録を保持していた。

最大の武器は192cmという大柄な体格を生かしたパワフルな空中戦で、ペナルティエリアから巧みなヘディングとシュートでゴールを量産した。1997年にはアルミニア・ビーレフェルトへと移籍しドイツ・ブンデスリーガに挑戦を行い、その後バイエルン・ミュンヘンでも1シーズンプレーしたという経験も持つ。

引退後は指導者として様々なクラブを率い、2008年から2009年にはイラン代表も指揮。その一方で「ダエイ」というスポーツブランドも立ち上げ、自身が代表監督を勤めていたときにはユニフォームサプライヤーとしても契約していた。

ヴァヒド・ハシェミアン

イラン代表成績:50試合15ゴール

アリ・ダエイの後継者として評価されたヴァヒド・ハシェミアン。身長としては180cmを少し超えるほどという体格であったが、圧倒的な跳躍力を活かしてハイボールに強さを見せた。そのスタイルから「ヘリコプター」という愛称もつけられたほどだ。

若くしてドイツ・ブンデスリーガへ挑戦し、ハンブルガーSV、ボーフム、バイエルン・ミュンヘン、ハノーファー96でヨーロッパのサッカーを経験。ダエイほどの実績は残せなかったが、イラン代表では常に主力として前線を任された。

2012年に引退後は指導者に転身し、現役時代を過ごしたドイツへと戻って勉強を重ね、一昨年まではイラン代表のアシスタントコーチも務めていた。その一方でスポーツ用品ブランド「ジャーマン・スポーツ」を設立したり、ドイツの家電製品を輸入する会社を立ち上げたりとビジネスマンとしても活躍。

ホダーダード・アジジ

イラン代表成績:47試合11ゴール

日本人のサッカーファンにとって「アジジ」ほど有名なイラン人選手はいないだろう。1997年に行われたFIFAワールドカップ・フランス1998のアジア予選プレーオフで、日本代表がイランと対戦することになったときのエピソードが強烈だ。

試合前、イラン代表の中心選手の一人であったアジジは前日の練習を欠席。報道陣の前で車椅子に乗って移動しているところが目撃され、「彼は欠場することになるのではないか」と報道された。

ところが彼は結局その試合に先発出場し、しかもゴールを決めた。この記憶によって、日本のサッカーファンの間では怪我を装うなどの情報戦を「アジジ作戦」などと呼ぶようになった。小柄で切れのあるドリブラー系ストライカーだったが、プレー以上にインパクトがあった選手だ。

ファールシャード・ピーウス

イラン代表成績:34試合18ゴール

アリ・ダエイ以前のイラン代表におけるスペシャルなストライカーといえばファールシャード・ピーウスにほかならない。その記録は34試合18ゴールという素晴らしいもので、時には彼のほうがイランの歴史上最高の選手だったという声もあるほどだ。愛称は「ファールシャード・ゴール」。

名門ペルセポリスのエースとして長く活躍し、211試合で153ゴールを記録。7回もの得点王に輝いており、これは今でもクラブの歴史上最高の成績となっている。

なお1992年に広島で行われたアジアカップでは、グループステージの日本戦で0-1と敗北したあとに審判を暴行する事件を起こし、1年間もの出場停止処分を受けている。

レザ・グーシャネジャド

イラン代表成績:44試合16ゴール

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オランダにおけるイラン人選手の価値を飛躍的に高めたといえるグーシャネジャド。ちなみにペルシャ語であればグーチャンネジャード、オランダ語ではホーハニヤートと発音される。愛称は「グッチ」。

幼少期にイランからオランダへ移住し、ヘーレンフェーンの下部組織からトップチームに昇格。2部へ移籍したあとにカンブールで活躍を見せ、ベルギーリーグのシント=トロイデンでもシーズン11ゴールを決める結果を残した。

2016-17シーズンには古巣のヘーレンフェーンに戻ってエールディヴィジで19ゴールを決め、AZのジャハンバフシュとともにオランダでイラン旋風を巻き起こした。

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