昭和初期の写真に残った原爆で失われた街並み 記録した写真家と遺族の思い 広島

原爆資料館・東館。
見学ルートの最初に展示されている壁一面のパノラマ写真です。

ひときわ目を引く建物は、原爆ドームの前身、広島県産業奨励館。特徴的なT字形の相生橋。現在、平和公園になっているエリアは、旅館や商店が建ち並ぶ繁華街でした。

写真は、人々が生きていた証を記録しています。

撮影したのは、松本若次(わかじ)さん。昭和初期に、広島市中心部で写真館を営んでいました。被爆前の街並みや人々の暮らしを写した写真はおよそ1万3000点。原爆の惨禍から写真を守った若次さんと、受け継いだ遺族の思いとはー。

若次氏の孫 スチールカメラマン(広島市広報課・写真取材等専門員)大内斉さん
「この日常生活も戦争なんか起こったらあっという間になくなってしまう。だから平和は大事にしないといけない。大事なものなんだっていうことをやっぱり思って欲しいですよね」

深掘りニュースDig。原爆で失われた昭和初期の広島が、写真でよみがえります。

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昭和初期に広島で活躍した写真家・松本若次さんついて取り上げます。被爆前の広島の街並みや人々の暮らしをとらえた貴重な写真が、若次さんの遺族から広島市の公文書館に預けられました。その数、1万3000点。

写真を残した若次さんと、遺族の思いを取材しました。

昭和初期の広島市中心部ー。紙屋町交差点に路面電車が行き交います。

路面電車で便利になった八丁堀界隈は、映画館やデパートが立ち並び活気にあふれていました。

平和のシンボル、原爆ドーム。「産業奨励館」と呼ばれていた1936年には「見本市」が開かれ、広島の特産品が並びました。館内の様子を記録した、貴重な1枚です。

写真を撮影したのは、松本若次さん。廿日市市出身で1965年に76歳で亡くなったプロの写真家です。(※松本若次氏 1889年~1965年)

若い頃、家族でアメリカに渡り、農園で働いていたときに現地で本格的に写真技術を学びました。帰国して38歳のときに「猿楽町(さるがくちょう)」と呼ばれたいまの「そごう広島店」のあたりに写真館を開業。アメリカにいたときから「好きな写真に打ち込めるように」と若次さんを支え続けた妻・テエさんも一緒でした。

若次氏の孫 スチールカメラマン(広島市広報課・写真取材等専門員)大内斉さん
「桜がさいたらきれいでしょうね…」

若次さんの孫、大内斉さん(66)です。大内さんはスチールカメラマンとして広島市の広報課で働いています。

若次氏の孫 大内斉さん
「おじいさん(若次さん)はパノラマ写真をいっぱい撮っていた。私も写真何枚かつないでパノラマ化してみるのが好きなんで、そういうのは似ているかもしれないなと思う」

祖父の若次さんは、大内さんが幼いときに亡くなりました。祖父が残した戦前の記録を後世に残したいと、広島市の公文書館に写真を預けることにしました。

(幼い頃の大内さんと祖父・若次さん)

若次氏の孫 大内斉さん
「個人で持っているとやっぱり散逸したり、いつの間にかなくなるとかいうリスクがあると思うんですよね。貴重な写真資料なので、残さないといけないなと強く思ったので、広島市公文書館に寄託するようにしました」

写真から見えてくる、昭和初期の広島の暮らし。
その1つが川との深い関わりです。

当時、子どもたちはもっぱら川で泳ぎを覚えました。原爆ドームそばの元安川も子どもたちの格好の遊び場に。川は、物資の輸送にも欠かせませんでした。

街には、ノコギリや金づちなどの大工道具を修理する露店もありました。

写真館が開業してまもなく、日本は戦争の時代へと進んでいきます。「軍都広島」からは多くの兵士が戦場へと送り出されました。

寄せ書きが書かれた日の丸。出征する兵士と見送る人たちを捉えた写真です。

太平洋戦争が始まると撮影用品が不足し、1942年、若次さんは写真館を閉じて実家のある地御前村(現・廿日市市)に疎開します。その3年後に原爆が投下されました。

写真は、疎開と同時に実家に移していたため焼失を免れました。

若次氏の孫 スチールカメラマン 大内斉さん
「核兵器を使われることもないような戦争でも、やっぱり日常生活っていうのはあっという間になくなってしまう。ましてや核兵器などを使われたら、本当に何もかもがなくなる。写真はそういうなくしちゃいけないものがちゃんとあるんだよ、あったんだよっていうことの証拠、記録だろうと思います」

原爆で奪われた人々の日常。
若次さんの写真は、戦争の恐ろしさも訴えかけています。

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アメリカ時代、妻のテエさんがしっかり農園の仕事をして、写真やグラフィックデザインに興味があった若次さんが本格的に写真を学べるように支えたという。帰国後は、アメリカで最新式のカメラや撮影機材を調達して写真館を開業。その腕前は高く評価され、写真館だけでなく企業の契約カメラマンなどもしていた。撮影の注文は途切れることがなかったとのこと。

広島市公文書館によると、保管された若次さんの写真約1万3000点は、2024年度から1年間かけてアーカイブ作業を進める。その後は一般の人もWebで閲覧できるようになる。また今後は写真展も予定している。

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