「やっと被爆者と認められた」新基準で手帳取得した男性、経緯語る 青森県内初、当時の住民ら証言で

自宅に送付された被爆者手帳を手にし「自分もやっと被爆者と認められた」と語る佐藤さん=1月30日

 1945年、広島で「黒い雨」を浴びた可能性がある青森県南地方在住の佐藤行雄さん(79)=仮名=が今年1月、被爆者健康手帳を取得した。原爆投下時、爆心地から二十数キロ離れた場所にいたが、「黒い雨が降っていた」との当時の住民の証言や県の調査によって、救済枠を広げた国の新しい基準(2022年~)を満たし、交付が決まった。新基準での手帳交付は県内で初めて。佐藤さんは「他に県内に手帳を取得できる人がいるかもしれない。自分の体験を話したい」と東奥日報の取材に応じた。

 1945年8月、当時1歳半だった佐藤さんは、父の実家がある広島県加計町(現・安芸太田町)に、父母やきょうだいとともに、身を寄せていた。原爆が投下された6日、住民が集団で農作業をしており、その中に佐藤さんと母がいた-と、地元の人の証言などから推測される。

 終戦後、佐藤さんが6歳の時に父が、10歳の時に母が他界した。亡くなった理由は分からない。

 親類宅に預けられ広島で幼少期を過ごした佐藤さんは19歳の時、七つ上の兄が働く青森県に移り住んだ。生活のため、兄が営む店で必死に働いた。

 戦争や、故郷に原爆が落とされたことなどについて、家族や周囲の人たちと話すことはなかった。「そういう雰囲気ではなかった」(佐藤さん)

 原爆投下時、市街に近い場所にいた姉は「被爆者であると分かれば結婚できない」と被爆者手帳を申請することを拒んでいたという。

 2021年7月、広島原爆の黒い雨を巡って、広島高裁が広範囲に降ったと推認し、被害者の救済拡大を命じた。これを受け厚生労働省は22年4月、黒い雨に遭ったことが否定できない-などの要件を満たせば被爆者と認め、手帳を交付する新基準の運用を始めた。

 「もしかして自分も」。佐藤さんは22年12月、青森県庁に手帳の申請を行った。交付要件となる証言を得るため、広島にいる知人2人の協力を得た。

 旧加計町に住んでいた現在90代の男性は次のように証言した。

 「草刈り作業中に飛行機が広島市内方向に飛んでいった。しばらくして目が痛くなるほどの光がして、市内方向からドーンと音がした」

 「11時ごろ、雨が降り出した。皆、家に帰ったがシャツが黒くなっていた。当日は集落の共同作業で大人も子どもも一緒に作業場に集まっていた」

 佐藤さんは手帳申請後、関係機関と書類のやりとりをした。県の担当課も、佐藤さんが旧加計町に住んでいたことを確認する作業を進めた。

 今年1月、自宅に送られてきた被爆者手帳を手に、佐藤さんは「自分もやっと被爆者と認められた」と、しみじみ思ったという。取得によって医療保険や介護保険の費用負担がなくなる。

 脳血管疾患で入院した経験がある佐藤さんは、体調の悪化を心配し、原爆の影響が表れることも懸念する。「広島出身で県内に暮らす被爆者と思いや不安を共有したい」と、近く青森県原爆被害者の会に入会する意向だ。

 県によると、県内の被爆者健康手帳取得者は今年1月現在、佐藤さんを含め35人(広島16人、長崎20人、広島・長崎の重複1人)。年代は90代が10人、80代が17人、70代8人。高齢化によって年々減る傾向にある。

 ◇

 広島の黒い雨 1945年8月6日の米軍による広島市への原爆投下後、爆心地やその周辺に降った放射性物質やすすなどを含む雨。国は爆心地から北西側約19キロ、幅約11キロの楕円(だえん)形の範囲を大雨が降ったと推定する「特例区域」とし、当時区域内にいて11種の疾病を発症した人に、被爆者健康手帳を交付してきた。2021年7月の広島高裁判決は、雨が特例区域より広範囲に降ったと推認し、原告全員への手帳交付を命じた。高裁判決が確定し、厚生労働省は被爆者手帳交付の新基準を定め、22年4月に運用を始めた。

© 株式会社東奥日報社