三位一体型観光街づくり~地域創生撮影活動~第1章「魅力発見」

写真家としての仕事

写真撮影という今の仕事上、色々な素晴らしい景色に出会うことがしばしばある。その度に目で見て受けた印象を上手く写真にして表現したいと思いを巡らせ、シャッターを切る。そこには決して深くはない、むしろ浅いくらいの私の経験値と薄っぺらい知識を地域の皆様方からいただいた様々な情報で補い、ファインダーを覗くのだ。

既にその時点で撮影した写真の「使い道は想定した設定」ができている。これが現在私がプロの街づくり写真家として活動できる強みになっていると理解し、常に研鑽意識を抱き続けている。風変わりな写真家ではあるが。

写真に携わっておられる方々にも色々なタイプの写真家さんやカメラマン諸氏が存在する。自然風景、建物、交通機関、広告、ポトレート等々多岐にわたる。そのような中、この私はいったいどんなタイプの写真かなのだろうかとしばし考えることもあるが、たまに聞かれると「地域創生撮影が専門」と答える。

今回からの投稿では、2006年当時の財団法人日本交通公社における観光実践講座で講義させていただいた内容と、翌2007年に「季刊中国総研 vol.11-4,No.41」において取り上げていただいた「三位一体型ツーリズムとオンリーワン」を基に積み上げてきた街づくり写真家としての活動骨子「三位一体型観光街づくりと地域創生撮影」についてご説明していくこととする。

撮影の背景

1998年9月1日のこと、当時の大洲商工会議所に「大洲市中心市街地活性化検討特別委員会」なる長い名称の組織が行政を含む官民協働で産声を上げた。元々サラリーマンだった私は、親父以外の家族全員を敵に回して脱サラ独立開業し当時6年目。その後44歳にしてたまたま大洲商工会議所青年部の会長という立場にあったことから、その特別委員会に充て職として参加することになった。

ここが写真家としての私の原点。それまで趣味だった写真撮影がひょっとしたら道具として使えるかもしれないと思い始め、そもそもあまり上手くはなかった撮影技術をどうにかして磨き上げようと七転八倒していた。

目の当たりにする「欠けているもの」

一方、進み始めた大洲市の街づくりにおいては、その後発展的に形成された委員会などでいつの間にか幹事をすることとなり「今(当時)、大洲市に最も欠けていること」を目の当たりにすることとなった。

それは肱川と大洲盆地という特異な地形と自然が絡んで生まれる素晴らしい自然現象や、先の大戦で運良く戦災に遭わなかったことが功を奏し、江戸時代からの町並や地域の伝統文化などがそっくり残っているということを生かし切れていないということだった。

隣町の内子町が飛ぶ鳥を落とす勢いで観光集客が進み賑わっていることを横目で見ながら、考えた手立てが肱川を中心とした素晴らしい風景や伝統文化、暮らしなどを撮影してこれを地域情報として発信していくことしか残された手立てはない...と、思い始めた。元々絵心も全くない不器用な私にとっては、ただ写真が好きだと言うだけではどうにもならんと写真撮影の難しさの壁に直面した。

困難を極めたうかい撮影(後々の名場面)## 活動の舞台

2002年4月12日のこと。それまでの4年間の下ごしらえが実って「大洲市TMO」として認定を受けた街づくり会社が立ち上がり取締役として関わることとなってしまった。既にこの時点で街づくりとしてのホームページは自作して立ち上げていたので、この日から正式に写真撮影した地域の情報をインターネットを通して発信していくことが私の基本的な仕事となったのだ。

今でこそSONYにお世話になっているが、当時使ってたいたカメラはCanon AE-1という名機。フィルムカメラでリバーサルフィルムを使って撮影するため費用も高く付いていたがそれでも自己投資と思い続けてがんばったことは懐かしい思い出となっている。

被写体は地域だ

1992年に完全木造復元された肱川河畔に建つ大洲城は撮影の中心となった。どんな場面の撮影でも何とか城が絡まないかと考え撮影場所を探しながら歩き回っている内に、この町の素晴らしさと隠れた魅力に出会った。これならいけると自信を持ったのはその出会いがあったからこそで、私の撮影スタイルの中で大切にしている。

2004年に県の主催で開催された「えひめ町並み博2004」において、隣町に負けない状況を創り出して行くためにどうすれば良いか。それなりの試行錯誤により一つの方向性が見いだせたことで大きな転換期になった。

JALと土壇場の協議で実現したひじかわ遊覧

(これまでの寄稿は、こちらから)

寄稿者 河野達郎(こうの・たつろう) 街づくり写真家 日本風景写真家協会会員

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