非自民の牽引役、谷本県政生みの親 「舌鋒鋭い切れ者」党派超え惜しむ声 宇野邦夫さん

知事選で初当選を果たした谷本氏(左)とともに万歳三唱する宇野氏=1994年3月27日、金沢市広坂1丁目

 平成の県政界を疾風のように駆け抜け、唯一無二の存在感を放った政治家だった。6日に死去した元県議の宇野邦夫氏は、奥田敬和元運輸相に連なる非自民会派「新進石川」を率い、故金原博氏とともに谷本正憲前知事の「生みの親」として知られた。歯に衣着せぬ物言いで耳目を集めた反面、生真面目なまでの政治姿勢を貫いた「非自民の牽引(けんいん)役」の訃報に、党派を超えて惜しむ声が上がった。

 「こうと思ったことは何としてもやり遂げる、信念と実行力の人だった」。谷本氏は北國新聞社の取材に対し、こうしのんだ。

 県議初当選時は自民党所属だった宇野氏は、かつて秘書として仕えた奥田敬和氏が1993年に自民を離党して新生党を結成すると、動きをともにした。

 一方、中西陽一元知事の死去に伴う94年3月の知事選では、自民候補への一本化に傾いた奥田氏に猛然と抗議し、県政主流派の座を懸けて対抗馬擁立に動いた。「必要とあらば仕えた国会議員にも意見する。時の流れに身を任せるのではなく、自分で道を切り開くのが宇野さんの強さだった」と谷本氏は振り返った。

 当初は本命視されていなかった副知事の谷本氏に白羽の矢を立て、金原氏らを説き伏せて擁立したのも宇野氏だ。谷本県政誕生後は、98年に「新進石川」を結成。宇野氏自身が「金原が選挙の神様なら、わしは神主や。神主がおらんと、神様は敬われんぞ」と常々語った通り、鷹揚な人柄で広く慕われた金原氏と、舌鋒鋭い切れ者として鳴らした宇野氏の名コンビは国政、県政で多数を握る自民と対峙し、時に翻弄するほどの存在感を示した。

  ●「奥田より宇野さん」

 森喜朗元首相は、衆院旧石川1区を舞台にした自身と奥田氏の「森奥戦争」に触れて「実際は奥田さんよりも宇野さんとの戦いだった。大した政治家だった」とねぎらった。「一度県政のことをゆっくり話し合ってみたかった。勇将の死を惜しむ心境だ」と語った。

 自民県連最高顧問の福村章県議は、1月に金沢市内で行われた共通の知人の通夜で数年ぶりに会い、会食の約束をしていたという。「立場上、対峙することが多かったが、信義に厚く、存在感のある政治家だった」と悼んだ。

 県政の節目では、県議会の図書室などで密かに相談しあう関係だった両氏。岡田直樹氏が初出馬した04年の参院選県選挙区では新進石川に選挙協力を求め、代わりに宇野氏を県議会議長に推すことを約束したものの、果たせなかった。福村氏は今も心残りだと明かし、「気持ちではつながっていた。敵ながらあっぱれだった」とたたえた。

  ●「叱るが人情味」

 新進石川の流れをくむ県議会の非自民会派「未来石川」の吉田修会長は「自分にも他人にも厳しく、カミソリのような人だった。優れた嗅覚で激動の世界を生き抜いた偉大な政治家だった」と回顧。新進石川に在籍した元県議の新谷博範金沢市議は「奥田派最後の将軍」「選挙の鬼」と形容し、「人前で叱られたことは数え切れないが、二人きりになると人情味があり、頑張っていれば必ず褒めてくれた」と人柄をしのんだ。

 01年の参院選では、県内の非自民勢力が結束して宇野氏を担ぐ動きもあった。ただ、本人が「燃えるものを感じない。本人が燃えないのに周りを燃やせるか」と固辞した。02年6月、県議会の本会議中に脳疾患で倒れてからはつえを手にし、金沢市議初当選から40年となる15年7月に議員生活に終止符を打った後も、リハビリに励んでいた。

 体調不良を訴え、金沢市の金沢医療センターに緊急入院したのが今月2日。妻の孝子さん(78)によると、亡くなる少し前まで意識ははっきりしていたという。孝子さんは「『なんで入院せんなんがや』と怒っていた。最期まで反骨精神が強い人だった。良い時代、良い支持者に恵まれ、幸せな政治家人生を送ったと思う」と語った。

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