別所長治、信長方から離反の理由は… 三木合戦の新史料発見 「上司にアピール」秀吉の弁明手紙も 姫路で展示へ

姫路城時代の羽柴秀吉の元にあった書状群の写しとみられる新史料を発見した村井祐樹・東京大史料編纂所准教授=姫路市本町、兵庫県立歴史博物館

 戦国時代に現在の三木市で三木城主・別所長治と織田信長方の羽柴秀吉が争った三木合戦に絡み、信長の側近たちと秀吉がやりとりした書状の写しなど35点が見つかり、兵庫県立歴史博物館(姫路市)が8日発表した。秀吉が信長への報告の遅れを弁明したり、戦果を自賛したりと、後の天下人の性格が垣間見える。合戦前、別所氏が秀吉の対応に怒り、信長方から離反した理由などがうかがえる新発見の史料も含まれる。

 2022年1月、1冊の冊子の状態でインターネットオークションに出され、東京大史料編纂所の村井祐樹准教授(日本中世史)が落札した。秀吉が姫路城にいた頃、城内に集められた書状群の写しとみられる。3、4回転写されているが、唯一原本が存在する1通の写しは、原本にある花押(サイン)や筆跡まで正確に再現されているという。村井准教授は「いずれも原本に準じた扱いができる」と判断、同博物館の前田徹学芸員と共同で調査した。

 信長の側近8人の連名による秀吉側への返書では、秀吉があまり親しくない彼らに、自らの戦功を大げさに宣伝する書状を大量に送りつけていたことが分かる。三木合戦に関しては書状に三木城包囲の図解を付けていたとみられ、側近らは困惑しつつも秀吉に気を使い、「別所には羽根でもできて飛び立つよりほかに脱出するすべはないと、みな感じ入っております」(意訳)などと追従している。

 村井准教授は「別所離反という大失態の後、自分の功績が信長の耳に入りやすくする工作だろう。一人一人に送ったのだろうが、側近らは面倒なので連名で返したのでは」と話す。

 別所離反直後の天正6(1578)年に秀吉側が書き、信長側へ送付されなかったとみられる弁明書1通もあった。秀吉は離反を信長に報告せず、他から知った信長の問い合わせを受け「報告が遅れたことは決して油断ではない。別所の覚悟や播磨国人衆(有力領主)の様子を見極めていた」(意訳)と弁解している。

 この文書からは、信長が領主らを従わせるために城を破壊させた「城割り」が、従来は三木合戦後に始まったと考えられていたが、合戦の前からあったことがうかがえるという。城割りを巡る何らかのトラブルで秀吉が別所氏の不興を買い、離反されたと推察できるとしている。

 35通のうち14通程度は秀吉の性格をうかがわせる内容といい、「上司にアピールしたい魂胆が見え見え。こんな同僚がいたら嫌ですね」と村井准教授。秀吉の対応から、信長について「部下に綿密な報告を求める、細かい性格の中小企業の社長みたい」と分析する。

 他に秀吉重臣の竹中半兵衛らに宛て、三木合戦中の播磨国人衆とのやりとりを示す書状群などもあった。

 新史料は村井准教授が3月刊行予定の「中世史料との邂逅」(思文閣出版)で全文を公開し、同博物館でも4月6日~7月7日に一部を展示する(観覧無料)。同博物館TEL079.288.9011(上杉順子)

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