一級審判員として最後の笛。高山啓義が選んだ舞台は...最も印象深い試合は野洲対鹿実「やっぱり国立競技場での選手権決勝は特別」

試合が終わると、晴れ晴れとした表情で仲間たちから花束を受け取った。高山啓義、49歳。J1通算230試合、J2では187試合で主審を担当し、2004年から2013年までは国際主審も担ったレフェリーが、一級審判員として最後の笛を吹いた。

3月18日に50歳を迎える高山氏は、自身が一級審判員の資格を取得した当時の定年が50歳だった点を踏まえ、同月31日を持って一線を退くことを決断。昨季限りでJの舞台を去ったなかで、一級審判員としての最後の舞台に高校サッカーを選んだ。

2月10日に行なわれた栃木県高等学校サッカー新人大会の決勝。高校時代の後輩でもあり、2010年と2014年のワールドカップに参戦した相樂亨氏が副審を務めたなかで、高山氏は的確な状況判断と機敏な動きでゲームをコントロールした。

この試合を最後に引退するとは思えないレフェリングを披露。試合終了後には、國學院栃木を3-1で下した矢板中央の選手たちから胴上げをされて、最後のゲームを締め括った。

「自分にとってはラストゲーム。でも、意識したのは選手第一、選手ファースト、プレーヤーズファーストで笛を吹き、選手たちが気持ち良く試合ができるようにすること。主審として目立たないように選手のプレーを第一に考えていたので、普段とは変わらない1試合でした」

高山氏は宇都宮北高の出身。国際主審として活躍した十河正博氏が監督を務めていた影響で、高校時代から主審の道を目ざし、国士舘大でさらなる技術向上を期して精進した。

大学卒業後の1999年11月に一級審判員に登録され、翌シーズンから副審として、2002年から主審としてJリーグのゲームに携わった。04年からは恩師の十河氏と同じく国際主審となり、06年にはカタールのドーハで行なわれたアジア競技大会の決勝で笛を吹くなど、第一線で長く活躍した。

その一方でプロフェッショナルレフェリーとしては活動せず、栃木県内の高校で教諭を務めながらサッカー部の指導にも従事した。その理由について、高山氏はこう語る。

「十河先生が国際審判員をやられていたので、僕も目標の一つとして高校時代から掲げていた。ただ、プロフェッショナルレフェリーではなく教諭としての活動にこだわったのは、恩師の影響が大きいんです。審判をやるために教員になったわけではない。先生はよくそんなことをおっしゃっていました。自分もその教えを受け、あくまで教員という立場で活動を続けてきたんです」

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そんな高山氏が審判生活の中で最も印象深い試合があるという。それが2005年の高校サッカー選手権決勝だ。対戦カードは乾貴士を擁する野洲と鹿児島実。サッカーファンなら記憶に残っている一戦だろう。

「Jリーグの試合はたくさん笛を吹かせていただいたけど、一番印象に残っているのは野洲と鹿児島実のゲーム。セクシーフットボールという代名詞がついた野洲が初優勝を収めたのですが、僕にとってもやっぱり国立競技場での選手権決勝は特別。僕も高校時代にサッカー部で活動して憧れていた舞台だったので、そこに立てたことは嬉しかった。恩師の十河先生も2年連続で選手権決勝の主審を務めていたので、恩師に近づきたかったという意味でも印象に残っています」

今後は教員を務めながら、後進の育成に励む。幸いにも栃木県内には23年度から国際主審となった長峯滉希氏など有望なレフェリーが揃っており、その勢いをさらに加速させるべく次世代の審判員を育てていくことを誓う。

「自分はレフェリースクールを月1回で開催しながら高校生年代の主審を育てているので、これからも若い審判の力になっていきたい」

高山氏の視線は次に向かっている。20年以上、第一線で活躍してきた名レフェリーの挑戦に終わりはない。

取材・文●松尾祐希(サッカーライター)

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