チャーリー・カウフマンらしい“仕掛け”も 『オリオンと暗闇』のユニークな物語を解説

『シュレック』シリーズや『ヒックとドラゴン』シリーズなど、数々の劇場アニメーション作品を送り出してきた、ドリームワークス・アニメーション。Netflix配信となった、スタジオの新作『オリオンと暗闇』は、絵本を原作に、なんとあの脚本家チャーリー・カウフマンが脚色を手がけたことで話題となっている一作だ。

チャーリー・カウフマンといえば、『マルコヴィッチの穴』(1999年)や『エターナル・サンシャイン』(2004年)の脚本を手がけ、『脳内ニューヨーク』(2008年)、『もう終わりにしよう。』(2020年)では脚本のみならず監督として映画づくりをしている、才能に溢れた映画人。彼の作品を知っていれば、本作『オリオンと暗闇』が、“なるほどチャーリー・カウフマンの脚本だ”と感じられるはずである。ここでは、そんな本作が真に描いたものが何だったのかを、深いところまで掘り起こしていきたい。

※本記事では、『オリオンと暗闇』の重要な展開を一部ネタバレしています。

本作の主人公オリオンは、小学生の臆病な男の子だ。彼は、日常のあらゆることに不安を感じながら生活している。いじめ、海洋、携帯電話からの放射線、不気味なピエロ、高層ビルからの転落、死後の世界……。そして、仲良くなりたいと思っている同級生のサリーから嫌われるのではないかと、自分から声をかけられないでいる。これらは、成長した大人でも恐かったりするので、彼の臆病さを笑ってばかりはいられないだろう。

恐がり屋のオリオンがとりわけ恐怖しているのが、“暗闇”である。寝るときに一人で闇に対峙するのが嫌で、両親を自室に引きとめたり、密かに照明を点けるのが常となっているのだ。そんなある夜、いつものように、ぶるぶると震えているオリオンの前に、なんと“暗闇”そのものが、人間のような姿かたちとなって、話しかけてきた。“暗闇”は、大勢の子どもたちから嫌われていることに傷ついている。だから、そのなかでも自分を最も嫌っているオリオンを選び、暗闇恐怖症を克服させようとする。かくしてオリオンは、“暗闇”の手を握って、暗闇の世界へと飛び出していくのだった。

ここまでの内容は、エマ・ヤーレット著の原作絵本『オリオンとクラヤーミ』(主婦の友社)の展開と、おおむね変わらない。絵柄は異なるが、少年オリオンが、クラヤーミ(暗闇)と冒険することになる展開も同じである。この絵本は、スクラップブックのような演出や、仕掛けが施されているなど、随所に工夫があって楽しい内容となっている。そして、物事をしっかりと見つめることで、恐怖を乗り越える術を教えてくれるのだ。

しかし本作では、ここから大胆な展開を見せる。なんと、オリオンが“暗闇”とともに旅立つ話は、大人になったオリオンが、自分の小さな娘に話してあげていた、自身の経験に即興的なファンタジー要素を加えた物語だったことが分かるのだ。まさに、これまで重層的な構造のメタフィクションを脚本にとり入れてきた、チャーリー・カウフマンらしい仕掛けだといえるだろう。

オリオンの娘の名前は、実在したギリシアの天文学者から名付けられた、“ヒュパティア”。彼女は、父親オリオンの話を聞いていくうちに、自分を物語の世界に登場させ、小さな頃のオリオンを助けたらどうか、というアイデアを提案する。これによって、もともと単純な内容だった物語構造は、二つの層に分かれ、相互にかかわりを持つという、複雑なものになっていく。さらには、新たな少年ティコも登場し、作品世界はさらなる複雑化、多層化を見せ、一度ひっくり返された物語が、さらにひっくり返されてしまうことになる。

終盤の具体的な解説をすることは避けるが、ここまで複雑かつ挑戦的な試みを、絵本を原作にした、子どもが楽しめる長編アニメーション作品でやってしまうというのは驚異的だというのは確かだろう。とはいえ、作品世界を構成するべく用意されたそれぞれの層には、一本の太い筋が通っており、観客が混乱したり迷い込むようなことは少ないのではないか。

その線とは、オリオン、ヒュパティア、ティコを結ぶ関係性だ。“ヒュパティア”の名が天文学者だったように、おそらく“ティコ”は、後の時代の天文学者“ティコ・ブラーエ”から取ったものだと推察される。このように、星座の“オリオン座”と、それを観測する立場の人物がいるという構図が、物語構造そのものの説明となっていると考えられる。

さらに、キャスティングにも秘密がある。主人公オリオンを演じているのは、『ルーム』(2015年)の子役だった、ジェイコブ・トレンブレイだ。彼はカナダ出身の白人だが、その娘役のヒュパティアや、謎の少年ティコ、さらには、同級生サリーを演じているのは、皆アジアにルーツを持つ俳優だ。なぜ、このようなキャスティングになっているのかは、本作を最後まで観れば理解できるはずである。

原作の絵本にさまざまな工夫があったように、まだ本作には、楽しい仕掛けが隠されている。“暗闇”がオリオンに、自分の存在を説明するときに見せるのが、自作した“超短編”映画である。そのクレジットに「ヴェルナー・ヘルツォーク」とあるように、このナレーションには、実際にベテランの鬼才監督ヴェルナー・ヘルツォークが声をあてている。ヘルツォークは、自作のドキュメンタリーなどで自らナレーションを担当したり、俳優としても活躍している。

さらにその映画にクレジットされている「ソール・バス」は、映画のタイトルデザインで有名な人物。“暗闇”を紹介する映画を、そんな大御所たちが担当していたというのが、映画ファンにとって面白いユーモアになっている。ただ、ソール・バスの方は1996年に亡くなっているため、本作で実際にデザインをしているというわけではない。存命のときに“暗闇”の映画にかかわっていたというジョークなのだろう。

“暗闇が恐い”というのは、多かれ少なかれ誰にでもある、人類共通の感覚といえる。本作では、ご丁寧にヒュパティアが、「人類が暗闇を恐れるのは、夜行性の捕食者から身を守るために身につけた進化的適応だから」と解説してくれる。

そう考えれば、人が暗闇以外に、さまざまなものに恐怖心を持つこともまた、ある意味自然なことだといえるかもしれない。本作では、オリオンの度を超えた恐怖心を、“創造力ゆえ”だと解釈しているところもある。“暗闇のなかには、得体の分からない何かが存在しているかもしれない”、“自分の身に、何か恐ろしいことが起きるかもしれない”……このように想像してしまう感覚の裏には、クリエイティブな才能の種が眠っているかもしれないのである。

だとすれば本作のメッセージは、子どもよりも、じつは子どもと一緒に本作を観ている親に向けられているのかもしれない。子どもが何かを恐がっていたとしても、それを強引に否定したり、無理に矯正してしまおうとするのではなく、その個性を認めて、本作のオリオンとヒュパティアとの関係のように、話し合いながら一緒に問題を突きとめられればいいのではないか。

互いに心を通わせながら、乗り越えるべきところは乗り越え、伸ばすべきところを伸ばすような子育てができれば、こんなに素晴らしいことはない。本作『オリオンと暗闇』は、ユニークな物語を通して、このようなメッセージを伝えたいのではないだろうか。

(文=小野寺系)

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