福島の風評被害なくしたい 日系3世の米国人 長崎大大学院で災害・被ばく医療を専攻

長崎大大学院で災害・被ばく医療を学ぶテラダさん=長崎市

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故は3月で発生から13年。地震や津波からの復興が着実に進む一方、原発事故による風評被害はいまだに根強く残る。こうした中、「風評を払拭し、福島の復興を後押ししたい」と米ハワイ州出身の日系3世、スティーブ・テラダさん(75)が昨年10月、長崎大大学院に入学。被爆地長崎で災害・被ばく医療の専門家を目指し、学び始めた。
 1月中旬、長崎市坂本1丁目の長崎大原爆後障害医療研究所で医療的側面から見た福島第1原発事故と復興支援をテーマに高村昇教授が英語で講義。カザフスタンやキルギスからの若い留学生6人に交じってテラダさんは真剣な表情で聞き入っていた。

◆「必ず戻る」
 2011年の震災発生当時、米陸軍職員として神奈川県を拠点に日本中を飛び回っていたテラダさん。事故から間もない6月、ハワイのロータリークラブの仲間とともに初めて福島入り。その夜、上司からの電話が鳴った。米政府は軍関係者に対し、福島第1原発から80キロ圏内への立ち入りを禁止していると告げられた。何もできないまま福島を離れることになり、「必ず戻ってくる」と地元の人に約束した。
 米陸軍を退職した18年に福島を再訪。2週間かけて原発周辺など県内各地を巡った。大部分の地域で放射線量は安全な基準だったものの、食品の売れ行きは芳しくなく、観光客も減少。「福島は危ない」。そんな風評被害に福島の人々は傷つき、観光や漁業、農業などの再建は道半ばだった。「真実をアメリカの人たちに発信してほしい」。地元の人たちの願いを聞き、テラダさんは決断をした。

◆伝えるため知識を
 2019年3月から1年間、テラダさんは米ハワイから福島市に移住した。祖父母は熊本出身で約120年前にハワイに移住した。
 福島に住み始めたテラダさんは東京電力福島第1原発事故の風評被害を払拭しようと、線量計を手に各地を巡り、生産者ら地元住民と交流を深めた。地元産の野菜や魚などを食べ、自ら安全性を確認。滞在中はもちろん、帰国後も新聞や雑誌への寄稿、テレビ出演、講演などを通じて福島の今を伝え続けた。
 ただ、目に見えず、臭いもない放射線。安全性を伝えるには「もっと専門的な知識が必要」と感じるようになった。米国内で学べる大学などを探したが、見つからず、福島県立医科大(福島市)に相談。長崎大と共同で放射線災害の危機管理などができる専門家を育成する修士課程「災害・被ばく医療科学共同専攻」を開設していることを知った。今度は学生として日本に戻ろうと決めた。
 ところが、20年春ごろになると、世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るい始め、秋からの留学はいったん中止になった。それでも思いは変わらず、コロナ禍の間もハワイの大学で公衆衛生について学ぶなど留学できる日に備えた。

若い留学生と一緒に高村教授(左)の講義を受けるテラダさん(右)=長崎市坂本1丁目、長崎大原爆後障害医療研究所

◆世界中で役に立つ
 3年が過ぎた23年10月、ようやく長崎での生活が始まった。テラダさんは「原爆の被害から復興した長崎の歴史を知っている。この場所で学ぶことは特別。長崎大に蓄積されてきた(被ばく医療などの)知見は福島の復興はもちろん、世界中で役に立つと確信している」と目を輝かせる。

 テラダさんを指導する長崎大原爆後障害医療研究所の高村昇教授は「意欲と情熱があって75歳とは思えない若々しさがある」とうれしそうに話す。「専門的な知識を身に付けることで説得力は確実に増す。今後は福島に場所を移して学ぶ機会もあるし、被爆者の皆さんとの交流も考えている」
 テラダさんを突き動かすものは何か。「福島のことを放っておけないのは自分のルーツが日本人だからだと思う。しっかり学んで、正確な情報を発信し、復興の手助けをしたい」とほほ笑んだ。

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