長野智子さん、母ロスの悲しみを乗り越えて思うこと「亡くなってからのほうが母が近くにいる気がします」

いくつになっても心のどこかで頼りにしている母という存在。いつか別れの日が来ると知っていてもいざそのときを迎えると
喪失感にうちのめされてしまう人も少なくありません。そんな「母ロス」の悲しみからどんなふうに立ち上がったのか、キャスター・ジャーナリストの長野智子さんに伺いました。

お話を伺ったのは
キャスター、ジャーナリスト
長野智子さん

ながの・ともこ●上智大学卒業後フジテレビに入社。「オレたちひょうきん族」で注目を集める。
同局退社後の95年に渡米。ニューヨーク大学・大学院でメディア環境学を学ぶ。99年同大学院修士を取得。
その後「ザ・スクープ」「報道ステーションSUNDAY」などのキャスターを務める。
国連UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)協会報道ディレクター。

『ママがいなくなったら生きていけない』ずっとそう思っていました

2021年11月25日、ジャーナリスト・長野智子さんの母・敏子さんは、自宅でその92年の生涯を閉じた。倒れて1カ月余り、それは無理な延命措置を取らない、自然に任せた最後だったと言う。

「今思うことはパパと幸せにやってるかなってことでしょうか。あとは、見守っててね。生前、『私が死んだら、あなたのことをそばで見守る』と言っていたので(笑)」

明るい笑顔で話す長野さんだが、7歳のときに父を病気で失って以来、母を亡くすというのは考えるだけで恐ろしいことだった。

「父を失った瞬間から、『この人がいなくなったらどうしよう』とずっと思っていました。子どもの頃は、生存していけなくなる危機感というのもありましたけど、大人になってからは、一番近くて大切な存在として、『ママがいなくなったら生きていけない』と毎日思っていました」

それでも今、穏やかに振り返ることができるのは、母だけに集中して過ごしたあの最後の1カ月があったからだと言う。

敏子さんが倒れたのは、11月の1週目のこと。その2週間前までは、多少食は細くなっていたものの、長野さんと一緒に外食して元気にうなぎを食べたりしていた。長野さんは、同じマンションの別室に暮らす敏子さんに朝電話をし、体調がよければ一緒に散歩に行くことを習慣にしていた。しかしその朝は電話に出ない。合鍵でドアを開けて、そこに敏子さんが倒れているのを発見した。

「意識はあったんですけど、パニック状態になっていて『このまま死なせて』と言うばかりなんです。近所の病院にいくつか電話してみたけれども、どこも往診はしていない。救急車を呼ぶしかないかなと思ったんですけど、元気なときから『とにかく延命治療はするな』と強く言われていたので悩みました」

そのときふと頭に浮かんだのが、9月に母が腰を痛めて介護申請をしたとき相談に乗ってくれた、地域包括支援センターの人だった。

「連絡をしてみたところ、『それはお困りですね』と言って、訪問診療をしてくださるお医者さんにつなげてくださったんです。その先生が夕方には来てくださって、『これは老衰で、もって1カ月ないかもしれません』と。急に言われて戸惑いましたが、『どうされますか。入院されますか』というお尋ねには、『いえ、母がそれだけはやめてくれとずっと言っていたので、私が介護します』と思わず答えていました」

その日から長野さんの介護の日々が始まる。敏子さんの枕元でパソコンを広げて仕事をし、やむをえず外出するときは夫に代わってもらった。

「もうその時期は何より母を最優先にして集中的に介護しました。最初は食事もしていたのが、食べられない食べたくないと拒絶するようになり、次に飲まないとなって、どんどん一つひとつ人間として生きるための行動をシャットアウトしていく。たかだか1カ月でしたけど、その姿を見て、ああ、寿命ってこういうことなんだなと思いましたね」

親子で伊勢志摩旅行へ

父の死から約1年経ち、ようやく日常を取り戻そうという気持ちになりつつある頃、旅行へ。長野さんは小学3年生だった。

枯れ枝のようになって理想的に天寿を全うした母

最終的には体のすべての水分を出し切って枯れ枝のような状態になって亡くなった。医師からは、理想的な天寿の全うの仕方だと言われた。

「『いろんなご遺体を見てきたけれども、本当にきれいに亡くなりましたね』と言ってくださったんです。とはいっても、苦しそうなときもありましたし、人間なかなかピンピンコロリとはいかないんだなということも痛感しました。私には絶対してほしくないと言っていた下の世話もさせることになったので、本人は辛かったと思います。でも、そこで母も私もやれるだけのことは悔いなくやった。それが、その後の自分を支えてくれているとも思うんです。あのときが一番大事な時間だったんだと、今になってしみじみ感じています」

一度離れたことでその後ずっと仲よしに

14歳年上の兄はすでに家を離れていたため、父を亡くして以降、長野さんは敏子さんとその母との3人暮らし。高校生の頃には「早く私が働いて安定収入を得なきゃ」と考えるようになっていたという。英語が好きで、将来は英語の教師になろうと心に決めた。

そんな、高校生まで「いい子」だった長野さんの「反抗期」は、大学生になってから訪れた。アルバイトでラジオ番組のDJを始めるようになったのがきっかけだ。夜遅く帰るようになり母の思いどおりにはいかなくなった娘を、心配のあまり口うるさく注意するようになった。

「ある日、イライラしてしまって、『ここまで大きくしてくれて感謝しているけど、ママにはママの人生、私には私の人生があるんだから、あとは好きな人を見つけて再婚でもして幸せになって』と言ったら、ものすごい勢いでほっぺたを引っぱたかれたんです。『私がいかにパパのことを愛しているか、あなたは何もわかっていない』って、それはもう恐ろしいほどの衝撃で。本当に申し訳ないことをしたと思いました」

母娘が肩寄せ合って暮らす長い歳月の間には、そんなふうに母から離れようとした時期もあった。実際、テレビ局のアナウンサーになってからは、あまりの忙しさに実家から通うのが難しくなり、長野さんは黙って家を探し、ひとり暮らしを始めた。

「母は悲しそうでしたね。今思っても胸が痛むぐらい。ただそこで距離を置いたことによって、ぐっと関係がよくなったのも確かです。母も覚悟を決めたようですし、私は私で母がこれまでどれぐらいのことをやってくれていたかを身をもって知った。そこからは本当にけんかもしないで、ずっと死ぬまで仲よしでいられましたから」

敏子さんが還暦を迎えたときは、かつて一家で住んだ米国ニューヨークを訪れた。そのときに友達の紹介で、当時住んでいた家を探してくれたのが現在の夫だった。

「母のほうが先に気に入ってしまって(笑)。『天国のパパが連れてきてくれたのよ』と言っていました」

母の還暦祝いで

かつて一家が暮らしたニューヨークへ。この旅で長野さんは現在の夫に出会った。

最期は夫と二人、母の手を握って

亡くなる前の晩、母の異変を感じた長野さんは、夫に電話をして「今晩はここに泊まるわ」と告げた。

「そうしたら、意識のないはずの母が、私のことを枯れ枝のような体で蹴っ飛ばすんですよ(笑)。どう見ても帰れって言っている。『わかった、明日の朝5時半にまた来るからね』と言って帰って、翌朝改めて行くと普通に寝ていたんです」

ところが12時頃、下顎呼吸が始まる。「これは最後かもしれない」と思った長野さんは、夫に連絡。夫が1時前に駆けつけると、それを待っていたかのように、そこから15分で敏子さんは息を引き取った。

「二人で母の手を握って最後の大きな息をした瞬間、夫が『あっ』と言ったんです。そして私も『あっ』って。時計を見て1時16分だなと思いました。二人で見送りました」

そこから医師、親族、友人・知人などに連絡、夕方には医師が訪れて死亡を確認した。そして、その日のうちに教会でのお通夜と、やるべきことに追われて時は進んでいった。

「やっと泣けたのはお通夜のときです。お葬式までずっとギャン泣きでした。でも荼毘に付して、その夜兄家族と食事をしたときは、もう笑っていたんです。やはり荼毘に付したことが大きいと思います。一連の弔いというのは残された人間にとって諦めがつくようにできているんですね。その後もお金の支払いとか、マンションをどうするとか、現実的な問題を片づける中で、人って戻るようにできているんだと思いました」

とはいえ、時を経てまた新たに生まれる悲しみ、深くなる喪失感もあるのではないだろうか。

「それがほとんどないんですよ。何かの拍子に瞬間的に思い出して、ダーッと涙が出るときはあります。でもひと通り泣いた後はケロッとしちゃう。というのも亡くなった後のほうが、母が近くにいる感じは強くなったんです。お墓に行かなくても、『ママ、いつもいるよね?』って」

90歳の誕生祝い

倒れる前の月まで外食を楽しんだ母・敏子さん。90歳の誕生祝いも近所のレストランで。

どんなに愛していても親は先に逝く。それが親孝行なんだなぁと

母を亡くすことを恐れ続けてきた長野さん。今、母と毎朝歩いた道をひとりで散歩しては「よく歩けているな」と思う。母を見送ってあの頃の恐れは消えたのだという。

「やはり人を最後に見送るときってものすごい勢いで覚悟をするわけです。見送った後の自分は、その前の自分と明らかに違う。見送ったことが自分を強くもするし、諦めもさせる。どんなに愛してどんなに大切でどんなに一緒にいたくても、親は先に死ぬもの。それが幸せであり親孝行ですから。その経験が自分を変えてくれるんです。大丈夫、人間ってよくできているなと思いますよ」

INFORMATION

『データが導く「失われた時代」からの脱出』

経済低迷が続き、いまだ「失われた時代」にある日本。しかし、そこから脱出し、ビジネス開拓を試みる企業が生まれている。2年にわたる国会・企業の取材と数々のデータによりその答えを明らかにする長野さん渾身のレポート。長野智子/著 河出書房新社 1870円

※この記事は「ゆうゆう」2024年3月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のために再編集しています。

取材・文/志賀佳織


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