「お子さんもお母さんも、ひとりじゃないよ」と伝えたい。わが子を亡くしたママが作る、亡くなった赤ちゃんのためのお洋服

亡くなった赤ちゃんのためにと、手縫いで作られた「天使のベビー服」。右上は、「ご家族の手元に置いて、思い出してもらえれば」と同じ布で作られたアメニティ。

「天使のブティック」をご存知でしょうか。死産・流産・新生児死などで短い生涯を終えた赤ちゃんをお空に送り出す時に、小さな小さなベビー服を手縫いで作り、病院を経由してご家族に無償で提供している団体です。スタッフは全員、自身もかつて赤ちゃんを亡くした“天使ママ”たち。「天使のブティック」の立ち上げ当初から関わっている泉山典子さんと竹縄晴美さんに、これまでのお話を聞きました。

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未熟児で生まれた次男を1歳で亡くして…

泉山典子さんが神奈川県立こども医療センターで次男・和人くんを出産したのは1999年のこと。24週、わずか600グラムで生まれた未熟児だったことから、和人くんはそのままNICU(新生児集中治療室)に入り、1年2か月を過ごしました。

泉山さん「未熟児特有の気管軟化症のため、どうしても呼吸がコントロールできませんでした。和人を自宅に帰してあげたいというお医者さんの意向もあって2000年の初夏に一度退院したのですが、1カ月ですぐに戻って小児科病棟に入院することになり、その5カ月後に亡くなりました」

和人くんがいなくなってからの日々を、泉山さんは「子どもが亡くなると、何もすることがなくなるんです」と振り返ります。それまでお世話になったこども医療センターに、和人くんの自宅療養時に購入した痰(たん)の吸引器などを寄付しに行き、「NICUでボランティアとして何かお手伝いできませんか?」と申し出ました。すると、当時在籍していたソーシャルワーカーのFさんから、「縫いものはできますか?」と思わぬ提案を受けました。

泉山さん「亡くなった赤ちゃんのために、小さなお洋服を縫うのはどうでしょうか?というお話でした。それで、おうちで手縫いを始めたことが『天使のブティック』の始まりでした」

当時のFさんの頭にあったのは、アメリカにあるメイヨー・クリニックという総合病院での取り組みでした。メイヨー・クリニックでは、ママのおなかの中で小さいまま亡くなったり、小さく生まれて短い生涯を終えた赤ちゃんが着られるようなとても小さなベビー服を、ボランティアの手で用意してご遺族に提供していたのです。Fさん自身が取り組もうとして多忙のため断念していたところに、泉山さんがボランティアを申し出たことから、活動がスタートしました。

今でも忘れられない、ご家族からのお手紙

天使のベビー服の作業風景。1枚ずつ手作業で製作しています。

まずFさんは、新生児の肌着の型紙を元に、おなかの赤ちゃんの在胎週数別の平均身長・体重表を参考にしながら、“小さなベビー服”の型紙を作成し、「お願いします」と泉山さんに手渡しました。そして後日、泉山さんが仕上げたベビー服は、「赤ちゃんが直接お肌に身につけるものだから」と肌触りのいい白の綿ニット地に、おしゃぶりとスタイのアップリケを施した、とても手が込んだ可愛らしいものでした。

泉山さん「悲しみを抱えている時、何かに集中できている時間はとても心癒される時間でもあります。長男が幼稚園に行っている間、家で1人になった時に集中したくて、お洋服を作っていました。できあがったお洋服はFさんが所属する病院の相談室を通じて、亡くなった赤ちゃんのご家族にお渡ししていました」

ただ、丁寧な刺繍やアップリケは1着あたりの製作に時間とお金がかかることから、かわいいプリントが施された布を使ったベビー服へと変更することになりました。泉山さん自身は直接赤ちゃんのご家族に会うことはありませんでしたが、「『こんなお洋服があるなんて知りませんでした』と、初めてお礼のお手紙をいただいたことは今でも覚えています」と当時を振り返ります。

そしてまたある時は、亡くなった赤ちゃんのおばあちゃんが、看護師に「ママには内緒で」と手紙を手渡したことがありました。その中には現金5千円とともに、こう書かれていました。「ママだけでなく、おばあちゃんも慰められました。孫のために使う予定だった一部のお金を、次の天使ちゃんのために使ってください」

お空にしか子どもがいない自分に、ママ友ができた

最初は泉山さん1人で始まった「天使のブティック」ですが、だんだん活動の輪が広がっていきました。

泉山さん「もし赤ちゃんと一緒に退院できなかった方々の中にも、私のようにベビー服を作ることで心が癒される方がいるなら、横のつながりがあればいいだろうなと思いました。それを当時、取材に来ていたテレビのドキュメント番組でお話したところ、同じく取材を受けていた竹縄さんがFさんを通して連絡をくださいました」

竹縄晴美さんも、泉山さんと同じく神奈川県立こども医療センターで娘の美衣(みい)ちゃんを亡くした“天使ママ”でした。美衣ちゃんは先天性の疾患である21トリソミーによる合併症で、生後4か月の命を終えました。

竹縄さん「妊娠中に救急搬送され、帝王切開になって美衣はずっとNICUにいました。いよいよ命が尽きるとわかった時に、先生から『何かやってあげたいことはありませんか』と言われたので、『お空を見せてあげたい』とお願いしたんです。最後の日に、ファミリールームという家族だけで過ごせる部屋で、ベッドを窓際に寄せていただいて、家族3人で青い空を見上げる時間を過ごせたので、よかったなと思っています」

美衣ちゃんとのお別れを経て竹縄さんは、泉山さんと出会い、その直後の2002年の冬に「天使のブティック」の活動を始めました。さらなるメンバーを募るために、神奈川県立こども医療センターの「わたぼうしの会」(子どもを亡くした方々によるお話の会)を通じて活動を告知。すると、2004年3月末には7人のメンバーが集まり、その後もメンバーは増えていきました。

竹縄さん「私は、お空にしか子どもがいません。こちらの世界にはいないので、自分にママ友ができるとは思っていませんでした。でも、この活動では泉山さんたちのような天使のママと知り合えて、ママ友ができたことがすごくうれしかったです」

70代の天使ママも。さまざまな思いを寄せて作られるベビー服

受け取ったご家族に寄り添いたいという思いから、天使のベビー服に添えられる手作りのメッセージカード。

天使のベビー服は、「使いたい」と申し出のあった病院から、赤ちゃんのご家族に直接届けられています。ただ、そのやり取りの中では、過去に悲しいすれ違いが生じることもありました。

泉山さん「天使のブティックのお洋服のことを病院の医療スタッフが説明すると、『私の子どもが亡くなることを予想していたの?』と怒りを感じる方もおられるそうです。もちろん病院のスタッフの方々は、しっかりと意図を説明されているはずなのですが、お子さんを亡くしたばかりで心がつらい時ですし、何も響かないという状態の方もたくさんいらっしゃるのだなと痛感しました。ただ、時間が経つことで、私たちの意図をわかってくださるご家族もいらっしゃいます。そのうちの1人の天使ママは、その後スタッフになって今でも私たちと一緒に活動しています」

天使のブティックには、幅広い年代の天使ママが参加しています。なかには70代の天使ママから「ぜひ活動に協力したい」と申し出があったことも。

泉山さん「亡くなったお子さんのことを、長年忘れられなかったのでしょうね。ご自身もお裁縫が好きだということもあり、私たちの活動が掲載されている新聞記事を見て、息子さん経由でご連絡をくださいました。昔の時代は特に、亡くなった我が子に会うことすらできずにお空に見送ったママも多かったと思います。そんな、過去の複雑な思いを持って参加してくださっている方もいます」

天使のブティックは今年で23年目を迎えました。布類などの経費はすべて寄付でまかないながら、全国130以上の医療機関に、年間700枚前後のベビー服を寄付しています。自らも天使ママとして、多くの天使ママたちの思いを受け止めてきた泉山さんと竹縄さんは、「これからも長く細く続けていきたいと思います」と力強く語ってくださいました。

お話/天使のブティック代表 泉山典子さん、竹縄晴美さん 取材・文/武田純子、たまひよONLINE編集部

●この記事は個人の体験記です。(記事に掲載の画像はイメージです)
●記事の内容は2024年2月の情報で、現在と異なる場合があります。

天使のブティック

神奈川県立こども医療センターのソーシャルワーカーの発案で、2001年に活動を開始。代表の泉山典子さんを中心に、赤ちゃんを亡くした「天使ママ」のメンバーが月に1回集まり、手作りのベビー服を製作して全国の医療機関に配布している。

天使のブティック公式サイト

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