「近代」から「現代」の歴史的転換点とは? 【帝国主義の終焉と第二次世界大戦の始まり】

目次

帝国主義から第二次世界大戦へ

前回の記事「「近代」と「現代」境界線はいつなのか? ~歴史の転換点に迫る」では、近代と現代の分岐点は、第一次世界大戦にあることを見てきました。

「近代」と「現代」境界線はいつなのか? ~歴史の転換点に迫る

帝国主義の全盛期は、1870年代から第一次世界大戦までになります。

ヨーロッパの列強各国が、アフリカやアジアの植民地獲得を競い合う時代でした。しかし列強が繰り広げる帝国主義の矛盾が深まり、植民地をめぐる対立が先鋭化していきます。

その帰結として、第一次世界大戦が発生したのです。

一方で1930年代のドイツでは、ナチスが急速に勢力を拡大します。民族主義と排他主義を掲げ、ヨーロッパで影響力を高めていきました。

第二次世界大戦における日本は、遅れて帝国主義化した国家であると認識されています。ヨーロッパでは第一次世界大戦を機に、植民地主義の限界が認識されつつありましたが、日本はその流れに遅れを取っていたのです。

第一次世界大戦後、ヨーロッパ諸国では「植民地獲得による競争時代はすでに終わった」という共通認識がありました。多大な代償を払ったことで「植民地支配の継続はもはや現実的でない」と考えられていたのです。

画像:大英帝国による帝国主義を象徴する人物・セシル・ローズ。3C政策を推進し、ケープタウンとカイロを結ぶアフリカ全土への鉄道建設を意味するイラスト public domain

第二次世界大戦の歴史的位置づけ

第二次世界大戦は、第一次世界大戦後における平和処理の失敗が大きな引き金となっています。
第一次大戦でヨーロッパが大きな傷を負ったにも関わらず、構造的な問題が残されたままだったため、再び世界的な戦争を招くことになりました。

一方、ナチス・ドイツの台頭はヒトラー個人の独裁体制と世界支配の野望、ユダヤ人に対するジェノサイドの側面が強く、19世紀の帝国主義国家とは異なる特殊性がありました。

日本に関しては、植民地獲得競争に遅れて参入するという後進国の側面を持っていました。ヨーロッパが第一次大戦で植民地支配の限界を知りつつあった時期に、日本はそれを押し進めようとしたのです。世界史に基づいた視野を持つの指導者が、日本には不足していたとも言えるでしょう。

第一次世界大戦を境に、世界秩序は大きな変革期を迎えていました。

社会主義革命の発生などヨーロッパ自体が大きく変貌し、第二次世界大戦はその渦中で発生した戦争でもあったのです。

ヨーロッパ近代の幕開け

画像:近代ヨーロッパのメルクマールであるウェストファリア条約 public domain

社会思想家の佐伯啓思氏によれば、ヨーロッパ近代の始まりは、1648年のウェストファリア条約の締結にあるとしています。

1648年に締結されたこの条約によって、それまでローマ教会の支配下にあったヨーロッパの領邦国家が、世俗的な主権国家として独立することが認められたのです。

宗教的権威から世俗権力への自立が、近代の幕開けを告げる出来事だったと位置付けられています。

この新たな主権国家を治める支配者として、当初は絶対王政を敷いた絶対君主が登場します。国王が無制限の政治権力を持ち、臣下からの反対を許さない体制です。

しかし世俗的権力が、なぜ主権を持ちうるのか。この正当性をめぐって新しい世界観と政治観の必要性が生じてきました。

ここに近代政治思想の萌芽が生まれたと考えられています。

個人主義に基づいた世界観の出現

17世紀にホッブズなどの政治思想家によって、自己の生命や財産を最優先する個人を中心とする新しい世界観が形成されました。こうした個人同士の自由な契約によって社会が構成されると考えられたのです。

この個人主義的な世界観を徹底的に追求していけば、必然的に人民主権や民主主義の理念に行き着きます。絶対君主制か民主制かは二次的な問題で、主権の最終的な源泉は個人にあることが論理的に導かれたのです。

この自由な個人の契約に基づく社会を前提とすれば、個人が政治的主権を持つことも当然の流れになります。

ここから近代的な民主主義の起源が生まれたと見なすことができるでしょう。

社会の根底にある個人の権利、つまり「自由と平等」を保障することが、近代国家の最も基本的な使命だと位置付けられたのです。

これが近代社会の根幹をなす価値観になります。

画像:近代国家の理論を築いたホッブズ public domain

国際関係の始まり

1648年のウェストファリア条約には、主権国家間の関係性に着目した側面もあります。

ここから「国際関係」という概念が生まれてきました。 一国家の内部では、主権者が法律を制定することで法的秩序が形成されます。しかし主権国家同士の関係には、そうした法秩序を担保するグローバルなメカニズムは存在しません。

「国際法の父」であるグロティウスは国家間の関係について、決して法秩序のない無秩序な状態はありえないと考えました。 「神の存在する限り、自然法の原理が国際関係にも及んでいるはずだ」と述べ、自然法を根拠に国際法の概念を示したのです。

しかし、国際法を制定・執行するだけの権力を持った超国家的な主権者というものはそもそも存在しません。国際連合のような国際機関もまだ生まれていませんでした。

したがって理念としての国際法は提唱されたものの、具体的に機能させることは難しく、実効性は弱かったのが現実になります。

勢力均衡論の登場

国家間にある法的秩序の脆弱性を補完する概念として、ヨーロッパでは「勢力均衡」論が登場します。複数国家が併存する状況での均衡を目指すことが、秩序の維持には必要であるとされたのです。

具体的には各国家が軍事力や経済力を増強しつつ、勢力バランスを取ろうとする現実主義的な国際関係が主流を占めます。

法ではなく力の均衡に依拠せざるを得ないのが、当時の実情だったのです。

参考文献:佐伯啓思(2015)『20世紀とは何だったのか − 西洋の没落とグローバリズム』PHP研究所

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