家族と離れ集団避難 受験控えた中学3年生、異例の共同生活…学習支援で派遣、鹿児島の先生が感じた子どもたちの「必死な思い」【能登半島地震】

集団避難先で授業を受ける輪島市の中学生たち=石川県白山市の白山青年の家(小林伸一教諭提供)

 「授業も衣食住もすべて同じ場でするという環境の中、受験を控えた生徒たちは焦りや不安を感じていたのではないか」。鹿児島県立薩摩中央高校の英語教諭、小林伸一さん(48)は5~9日、能登半島地震で集団避難している中学生の支援に当たるため、石川県の宿泊研修施設で活動した。親元を離れ、異例の共同生活を送る生徒たちを学習面で支えた。

 文部科学省の要請を受け、鹿児島県教育委員会が派遣。小林教諭は神奈川県で育ったが、両親は福島県の中通り出身だ。幼い頃から親しんだ地が大きな被害を受けた東日本大震災では、現地での活動がかなわなかった。「その時の心残りがある」と手を挙げた。

 石川県白山(はくさん)市にある県立白山青年の家では、車で3時間ほど離れた輪島市から中学3年生約100人が2次避難し、共同生活しながら授業を受けていた。自宅から制服を持ち出せなかったのか、私服の子もいた。

 石川県教委によると、大きな被害があった輪島市の教委が、生徒たちが学べる環境を確保するよう県に依頼。1月後半から希望者が集団避難している。

 施設では平日午前9時から午後3時半ごろまで、昼食を挟んで50分授業が4こま行われていた。学校生活は輪島の教員4~5人が担当。県外から学習支援に入った小林教諭ら10人は、生徒に声をかけて理解度を確認したり、授業の一部を代わりに担ったりした。

 気になったのは生徒と先生の様子だ。クラスは進路に応じて二つに分かれており、片方は100人以上が入る研修室で授業を受けていた。席は決まっておらず、先生の声を聞き逃すまいと前方へ座ろうとする生徒の姿から、必死な思いを感じた。

 輪島の先生たちは生徒の変化を見逃さないよう、よく声をかけていた。一方で「子どもたちがいない所では疲れた表情を見せる人がいた。自身も被災したり、慣れない環境で過ごしたりする中で気が張っているのでは」とおもんぱかる。

 派遣を終えた今、被災した生徒たちが高校という次のステージに無事たどり着けるよう願っている。勤務校のあるさつま町では1997年、県北西部地震があった。「災害はどこででも起こり得ること。学校で勉強できる幸せを感じて過ごしてほしい」。石川での体験は鹿児島の生徒たちと共有していく。

【地図】地震で被災した中学生が集団避難する石川県白山市の「白山青年の家」の位置を確認する
石川県での学習指導支援について報告する小林伸一教諭(中央)=鹿児島県庁

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