「私は、普通の人生を歩んではダメってこと?」生まれた双子が2人ともダウン症。息子のために駆け抜けた10年間【双子のダウン症候群育児体験談】

桐淵良美さん(43歳)は、優馬(ゆうま)君と風馬(ふうま)君(10歳)と詩菜(しいな)ちゃん(8歳)の3人の子どもを持つ母。優馬君と風馬君はダウン症候群(※)を持つ一卵性双生児の双子で、現在は特別支援学校に通う4年生です。長男の優馬君は、ダウン症の他にも重度知的障害と自閉症スペクトラム障害を持ち、風馬君は最重度知的障害と自閉症スペクトラム障害を持っています。
優馬君と風馬君が1歳半頃に、夫の勝さんが『NPO法人つなぐ』を立ち上げ、現在は夫婦で児童発達支援事業と放課後等デイサービス事業所を群馬県の高崎市と前橋市で5つの事業所を運営しています。
1回目の本インタビューでは、良美さんに優馬君と風馬君を妊娠した時のことや、2人がダウン症だと告知された時のこと、産後の双子育児について話を聞きました。

※ダウン症候群……ダウン症候群(Down syndrome)は、23組46本の染色体のうち、21番目の染色体が1本多く存在し、計3本(トリソミー症)となることが原因で発症する先天性の疾患群のことです。21番目の染色体が原因であるため、「21トリソミー」と呼ばれることがあります。

【医師監修】ダウン症の赤ちゃんの症状と特徴、その原因

妊娠4カ月で双子だとわかり、1500グラム以下の小さな2つの命が誕生

双子だとわかる前の1人しか写っていないエコー写真

――良美さんは双子の優馬君と風馬君を妊娠した時のことをこう振り返ります。

「2人は夫との婚約と同時に、自然妊娠で私たちのもとに来てくれました。経腟エコーでは、胎児は1人しか見えず、エコー写真にも1人しか写っていませんでした。ところが妊娠4カ月頃、おなかの上からエコーをするようになった時に先生が『ん?あれ?おかしいな……ちょっと待ってね……頭が2つあるな……』と言うのです。先生が戸惑う姿を見ながら私は『えっ?何?それって1つの体に頭が2つあるってこと?結合双生児ってこと?』と一気に血の気が引いたのを覚えています。しかし『あれ?ちゃんと背骨も2つあるね……これは双子ちゃんですかね?』という声が聞こえ、“双子”という夢にも思わなかった言葉にびっくり。しばらくその状況について行けず放心状態だったのを今でも思い出します。その後、身体はちゃんと離れていたことがわかり『この大きさまで双子だと分からなかったなんて!』と先生も驚いている様子でした。双子出産には色々なリスクがあるということで、群馬県にある大きな総合病院を紹介してもらい、そこに通院するようになりました」(良美さん)

――妊娠4カ月での双子の妊娠発覚に戸惑っていたと話す良美さん。双子を妊娠したという事実を徐々に受け入れながら、出産までは仕事に専念し、順調な妊娠生活を送っていました。

「当時、私はリラクゼーションサロンを運営していたのですが、そのサロンを貸してみんなでシェアするレンタルシェアサロンに切り替えて運営していこうと考えていたので、色々な人に施術を教えながら妊娠生活を過ごしていました。そして、妊娠8カ月(31週目)になったある日、いつものように椅子に座りながら施術を教えていた時、急に大量の尿漏れが……。『尿漏れにしても量が多すぎる、これってもしかして破水?』と思い、すぐに病院へ電話して急いで病院に行きました。病院で破水だということが分かり、改めてエコー検査をしたのですが『今、この病院だと出産の方が多くて病棟が空いてないので、他の病院に搬送になりますが、いいですか?』と言われました。紹介された病院はダウン症児に対応している病院でした。その時は何も思いませんでしたが、今思えばエコーの時から既にダウン症の疑いがあったのかもしれません。

そうして別の病院へ搬送され、妊娠31週5日、帝王切開で1419グラムの優馬が生まれ、同じ時間に1154グラムの風馬が生まれました。生まれた時、優馬の泣き声は聞こえましたが、風馬の泣き声は聞こえませんでした。私が優馬と風馬の顔を見ることなく、2人はそのまま別の部屋へ連れて行かれてしまいました。

それからしばらく2人には会わせてもらえませんでした。『お母さんが歩けるようになったら、赤ちゃんに会いに行きましょうね』と言う看護師さんの言葉を信じ、頑張って無理矢理にでも歩いていたのですが、歩けるようになっても会えません。看護師さんから『もう少しちゃんと休んでから会いに行きましょうか』と言われたのが悔しくて、不安でずっと泣いていたのを覚えています。

その後、何日してからでしょうか、やっとNICUに会いに行けることになりました。NICUはとても静かな空間で、保育器が並び『ピーピーピー』と機械の音が鳴り響く空間でした。そこにいたわが子は両手のひらに乗ってしまうくらいの小さな身体で、青い光の中でうつ伏せになり、アイマスクをしてチューブが入った状態でした。でも、その2人を見た瞬間はこの先の不安よりは、2人に会えたことの喜びと『生まれてくれてありがとう』『私がこの子たちを守って行かなければ』という気持ちでした。

しかし、面会に行く度に生まれたわが子を指先や手のひらでしか触れられないことはあまりにもつらかったです。ドラマのワンシーンのように、生まれてすぐに自分の腕で抱きしめて幸せを感じられることが当たり前だと思っていたのに、何で私はできないんだろう……と毎日2人に『ごめんね。ごめんね』と泣いていて、目ははれ上がってすごい顔になっていました」(良美さん)

産後1カ月、双子に「ダウン症の可能性がある」と医師から告げられ……

出産直後の小さな風馬君

――1500グラム以下の極低出生体重児で生まれてきた優馬君と風馬君。容体は次第に落ち着いていき、念願のカンガルーケアもできるようになりました。しかし生後1カ月頃、またしても思いもよらぬ現実が良美さんに突きつけられました。

「生後1カ月くらいの頃、『今後の流れを説明したいのでお父様も呼んでいただけませんか?』と言われ、夫と一緒に医師の話を聞くことになりました。その当日、医師から『黄疸も落ち着いて来たので光線療法を終了し、アイマスクも外れます。あと、お子さんにダウン症の可能性があるので検査をしたいと思うのですがーー……』という説明が……。“ダウン症”という言葉が聞こえた瞬間に頭が真っ白になって、医師の言葉が一切耳に入ってきませんでした。『え?まさか、そんな……。早く生まれただけではなく、ダウン症も……?』と一気に身体の力が抜け落ちて、何も考えられなくなりました。その時は夫も受け入れられず、『検査はしません』と言いました。私はそれを聞きながら『検査をしてもしなくても、ダウン症で生まれてきたのならダウン症はダウン症だよね』と冷静に頭の中でつっこんでいたのを覚えています(笑)。その帰り道の車の中では互いにひと言も話さずに帰りました。

実は、夫は私より13歳年上ということもあり、妊娠した時に夫から『染色体の検査を受けて欲しい』と言われていました。私も夫が言うのであればと検査を受けるつもりでしたが、ちょうど病院に検査の話をしようと思っていたまさにその日に、双子だということが分かったのです。双子で羊水検査をするとリスクはもっと高くなるし、何かあっても嫌だからと『この子たちに障害があっても私は絶対に産むから!検査はしたくない!』と夫に断っていたのでした。けれども子どもは本当にダウン症だった……。『この人となら平穏な家庭が築ける』と思い夫と結婚し、すぐに妊娠したことにもびっくりしていましたが、それが双子だとわかってびっくり。破水して早く生まれてしまってびっくり。小さく生まれてしまってびっくり。そしてわが子は夫が1番心配していたダウン症だったなんて……。度重なる偶然の連続で、思わず『神様は、私に平凡な人生を与えてくれなかった。私は、普通の人生を歩んではダメってことなのね』と泣きながら笑ってしまいました。

そしてその時から『神様が普通の人生を与えてくれないのだったら、生きてやろうじゃないのこの人生!』という気持ちに切り変わりました。あの時、これからの世の中を変える使命を授かったのだなと思っています(笑)」(良美さん)

退院した頃の優馬君と風馬君

優馬君(右)風馬君(左)

――2カ月後、NICUからGCU病棟に移り、生後4カ月の頃にようやく退院した優馬君と風馬くん。2人の育児は大変ではありましたが、比較的穏やかな日々だったと良美さんは話します。

「ミルクを飲む量が少なく、一般的な3時間空けて飲ませることができませんでした。少し飲んでは疲れて寝てしまうので、起きたら飲ませるというのを1時間ごとに交互に繰り返していた記憶があります。なので私は、夜中でもほとんど熟睡していなかったと思います。けれども、それ以外は、逆に楽で穏やかな日々で、ブログを始める余裕すらありました(笑)」(良美さん)

――しかし、2人を育てるうえで心配なこともありました。

「感染症や病気が怖かったです。風馬は身体が弱く、風邪やRSウイルスになると酸素の値が低くなると入院もしていました。また、人と目を合せないことは少し気になっていて、自閉症もあるのではと心配していました。

ダウン症に関する情報も少なかったので、この先どうなるのかわからず、しばらくは行き場がなかったですね。でもダウン症の子どもを持つママさんたちが集まる会に行くようになって、だいぶ気持ちが救われました。そこで出会ったママさんたちとは今でも仲良くさせてもらっています」(良美さん)

わが子のより良い未来のために…必死で立ち上げた児童発達支援

1歳頃の優馬君(左)風馬君(右)

――双子の出産をきっかけに、2人が1歳半の頃『NPO法人つなぐ』を立ち上げた桐淵さん夫妻。しかし障害児支援をゼロの状態からスタートさせるのは想像以上に大変だったそうです。

「2人が障害を持って生まれてきたことをきっかけに、経営者だった夫を筆頭にして障害児支援を立ち上げることになりました。しかし立ち上げてみたのはいいものの、雇用した職員に保育士・教諭・介護・福祉士などの資格があるからといって、障害児支援の知識があるというわけではありませんでした。ゼロからのスタートで今の形になるまでは本当に大変でした。

児童発達支援『ちゃいるどえっぐ』を始めたときは“わが子のより良い未来のための支援をしたい”という想いが強く、必死でした。当時、優馬と風馬は病院のリハビリに2週間に1度くらいしか通えなかったのですが、私は『毎日リハビリを実践した方が子どもの成長は促されるのではないか』と思い、優馬と風馬が通う病院のリハビリの先生に、成長段階に合わせて日々取り組むといいことをヒアリングし、事業所の支援に取り入れていきました。そのうちに『ちゃいるどえっぐ』を利用しているお子さんが通っている病院のリハビリにも同行するようになり、職員の方々の知識や経験がだんだんと増えていきました。今では独自の支援内容も整い、個別療育や集団療育等の支援や、日々の活動の様子を写真や文面で親御様にお伝えできるようになり、きちんと未来につながるための支援ができるようになりました」

――桐淵さん夫妻が立ち上げた『ちゃいるどえっぐ』に1歳半から通っていた優馬君と風馬君ですが、妹の詩菜ちゃんが幼稚園に通うようになったため、2人は幼稚園にも通園することになりました。

「娘が通う幼稚園に2人を通わせたいという思いがあったので、2人は年中さん年長さんの2年間、児童発達支援と併用して幼稚園にも通園していました。

優馬が年中の時は、2歳児クラスで過ごしました。年長になると、幼稚園の先生から『同じ学年の子どもたちと過ごさせてあげたいのですが、いいでしょうか?』とご提案いただき、年長の時は同じ年齢のお友だちに囲まれて過ごしました。周りのお友だちが本当に良く面倒を見てくれて、“小さな加配の先生”がたくさんいるような雰囲気だったので、優馬にとってとても良い経験になったと思います。

風馬が年中の時は、1歳児クラスで過ごし、年長の時は2歳児クラスで妹の詩菜と一緒に過ごしました。風馬も2歳児クラスでゆったりのびのび過ごせたので、良い経験ができたのではと思います。しかし、一部の先生から『こんな重度障害児でも幼稚園で見るのですか?施設だけで良いのでは』と言われたり、そのような扱いを受けたりして、心が苦しくなることもありました。こんなに嫌がられてまで風馬を幼稚園に通わせたくないと思い、年長の時に幼稚園は辞めるつもりでいたのですが、『担当の先生を変えるので、そのまま幼稚園に通ってください』と園長先生が言ってくださったので、週に3日、給食を食べたら帰るという半日の通園を卒園まで続けました。

そんな幼稚園時代を過ごしていたこともあり、優馬と風馬の様子を見つつも、小学校は支援学校を選ぶことにしました。地域の支援学級に通わせようと考えたこともありますが、当時の優馬は脱走してしまう可能性も高く、学習というよりは自身の身辺自立を学ぶ成長段階だと考えました。今となっては支援学校に行かせた選択は間違っていなかったなと思っていますし、私自身もとても気が楽になりました」(良美さん)

「優馬、風馬、私をママに選んでくれてありがとう」

良美さんと優馬君と風馬君と詩菜ちゃん

――ダウン症の双子の子育てや、NPOの活動をしていく中で、障害を持つ子どもに対する考え方に変化はありましたか?

「双子のダウン症のお子さんを持つ先輩ママさんが『正直10年は大変だよ。でも、10年耐えれば少し楽になってまた新しい世界が見えてくるから』と言ってくださったことがあるのですが、確かに10年大変でした。今年でちょうど10歳になり、まだ大変なこともありますが、少し余裕が出てきたと思っています。

現在、約90名以上の特性や障害のある児童と関わらせて頂いていますが、その環境にいると、特性があるとか、障害があるとか、そんなことはあまり気にならなくなります。その子はその子ですし、その子が楽しく生きられる方法をその子も自ら学び、周りが支えながら環境を整えてあげれば、ちゃんとその子に合った社会で生きていけると思います。

今、私は自信を持って言える言葉があります。『優馬、風馬、私をママに選んでくれてありがとう』です。今は、本当に2人のママに選ばれて幸せです。様々な試練があった人生ですが、今は神様からのご褒美だと思っています。その幸せをこれからはみなさんにおすそわけできるよう、私の人生のすべてをかけて歩んで行きたいです。みなさん、ダウン症児のママも悪くないですよ!」

お話・写真提供/桐淵良美さん 取材・文/清川優美、たまひよONLINE編集部

まさかの双子の妊娠に、まさかの双子がダウン症だった……偶然の連続で、挫けそうになりながらも「生きてやろうじゃないのこの人生!」と後ろを振り返らず、必死に駆け抜けた良美さんの10年間。様々な苦難を乗り越えながらも「優馬、風馬、私をママに選んでくれてありがとう」と言った良美さんの笑顔は幸せいっぱいでした。

2回目のインタビューでは、妹の詩菜ちゃんに対する声かけや、2人の自閉症の特性、良美さんの今後の活動ついて聞きました。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることをめざしてさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年1月の情報で、現在と異なる場合があります。

桐淵良美さん

PROFILE)2013年11月にダウン症の一卵性双子の男の子2人を出産、2015年12月に女の子を出産した3児の母。セラピストから転職し「NPO法人つなぐ」の副理事長となり、群馬県で5ヵ所の障害児支援施設の運営している。

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