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目次* 20代3人で立ち上げ* 療養後の「お礼返し」描く*
那覇市の小禄地域で、「太郎さん」こと川満暁(さとる)さん(68)が営んできた美容室「パーマ太郎」が2月いっぱいで閉店する。太郎さんの体調不安やスタッフ不足などが理由で、40年の歩みに幕を下ろす。客の好みや要望を形にするため、一心にはさみを動かしてきた太郎さんは「続けるうちに、美容師が天職になった。私をここまで育ててくれたお客さんには、言葉では言い足りないほど感謝しています」と充実した日々を振り返った。 (デジタル編集部・新垣綾子)
宮古島市出身の太郎さん。美容師に興味を持ったのは、農業関係の職業を志し、名古屋市の大学の農学部で学んでいた頃だ。アルバイト先の飲食店で、常連客だった美容師が繰り返した「美容師はもうかる」の言葉が「頭から離れなかった」と懐かしむ。
●20代3人で立ち上げ
大学を卒業すると、名古屋や岐阜の美容室で見習いとして働く傍ら、美容学校へ通った。沖縄にUターン後の27歳で美容師免許を取得し、28歳だった1984年に那覇市高良で開業した。
店名に「太郎」と付けたのは、過去に文芸作品を書いた際のペンネームだったことと「シンプルイズベスト。一発で覚えてもらえるから」。当初は、太郎さんだけでなく、美容師仲間の「次郎さん」「三郎さん」の20代3人で切り盛りし、「若い時ほどやり直しがきくし、合わなければすぐに辞めればいい」と突っ走った。
一方で、教職や農協関係の道に進むと期待していた両親は、美容師の仕事に猛反対だった。来店したのは母が一度だけ、父は全くないまま亡くなった。「だからこそ、頑張れた部分はあると思う。絶対に中途半端では終われない、と。結婚して家を建てたくらいから認めてくれていたんじゃないかな」
負けず嫌いを自認し、「上には上がいる」とたびたび欧米各地で開かれるショーも見学。「超一流」の技を目に焼き付け、再現するべく練習を重ねた。表面の髪が内側よりも長く、裾部分に段差を付けた「グラデーションボブ」は、得意としてきたスタイルの一つ。「持ちが良く、伸びてもまとまりやすい。これで40年、食べさせてもらった」と笑う。
1998年に高良から田原に店舗を移転し、多い日には1人で20人のカットを担うなど繁盛した。太郎さんを含め最多で6人いたスタッフをねぎらうため、定期的に旅行も企画し、タイや韓国、ハワイなどへ出かけた。
●療養後の「お礼返し」描く
区切りを意識するようになったのは、第一に体調面での不安が大きい。間質性肺炎と診断され、最近は店がある建物2階への階段を上るだけでも息切れする。2年前には仕事中に異変を感じ自ら119番通報。脳幹出血を起こしていたこともあった。
さらに美容師の業界も、なり手不足でスタッフ確保が難しくなっている。若者を中心に店舗を持たず、SNS(交流サイト)で活動を広げるなど働き方も多様化し「めまぐるしく変わっていく世の中で、今が店を辞めるタイミングかも」と決断した。
10年以上の常連で、沖縄市から月1回、タクシーで通う橋口由子さん(88)は「カラーとパーマで傷んでいた髪をよみがえらせてくれてからの縁。もう、太郎さんが大好き。私にとっては、ここしかない大事な場所なんだけど」と閉店を寂しがる。橋本さん以上に長く利用している妹の島袋都(くに)子さん(85)=那覇市=は「太郎さんは元気になって、また戻ってくる。大丈夫よ」と姉に語りかけた。
店を畳んだ後は、しばらく療養するという太郎さん。体調が許せば、外出が難しい高齢者の家を訪問したり、次郎さんが営む豊見城市内の美容室の定休日にスペースを借りたりして、できる範囲で客の要望に応える活動を描く。「運と出会いに恵まれ、充実した美容師人生を送らせてもらった。じっとしていられる性分でもなさそうなので、お礼返しとして何か役に立つことがあれば考えていきたい」と笑顔を見せた。