川崎一筋15年の登里享平はなぜC大阪へ移籍したのか。中村憲剛、大久保嘉人、家長昭博、小林悠らからの言葉、数えきれない涙、誓った決意【インタビュー前編】

川崎一筋15年を貫いてきた登里享平が、2024年シーズンへ向けて選んだのが、C大阪への移籍だった。驚きの決断の背景にはどんな想いがあったのか。そして新天地での決意とは。リーグ開幕前に胸の内を明かしてくれたスペシャルインタビューの前編をお届けする。

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「泣きすぎて二重になったんですよ」

そう笑い飛ばせるのが、生粋のムードメーカー、登里享平という男である。

それでも今オフ、15年所属した川崎フロンターレからセレッソ大阪へ移籍する決断の裏には、寝られなくなるほどの葛藤と、どれくらい流したか分からないほどの涙があった。

2024年の年明け、1月6日、両クラブから発表されたリリースを見て、目を疑った人は多かったに違いない。登里の川崎からC大阪への完全移籍が発表されたのだ。

2009年に香川西高から入団して以来、川崎一筋を貫き続けてきた男である。背番号2がいる川崎を、誰もが当たり前だと感じていたはずだ。本人でさえそう思ってきたのだという。

だからこそ、「自分でも驚いている」と振り返る。

それでも気持ちが動いたのは、C大阪からのオファーだったからだ。

「イメージしやすかったと言いますか、それこそ過去にセレッソに在籍したいろんな方から、すごく良い話を聞かせてもらっていて、実際にやっているサッカーもすごく魅力的でした。だからパッとイメージが沸いたと言いますか、本気で考えようと。他のクラブだったら、こうはならなかったかもしれないですね」

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川崎で共闘した仲間には、大久保嘉人、丹野研太、山村和也らC大阪で活躍してきた選手も多く、彼らは一様に、雰囲気の良さを話してくれたのだという。

ちなみに登里は大阪府東大阪市出身で奥さんも同級生。C大阪の試合も学生時代に観戦に行っており、その点でもイメージがしやすかったと話すが、「奥さんも自分も高校を出てから川崎で仕事をしていた」と人生の約半分を過ごしてきた土地への愛着もやはり深かった。

だからこそ悩みに悩んだ。残留をしようと決めた翌日には、移籍に気持ちが傾き、また1日経てば心が揺らぐ。その天秤はグラグラと何度も行ったり来たりを繰り返した。

「本当に二転三転したんですよ。フロンターレへの想いから残るべきやなと思いつつ、でもどこかで、チャレンジしたい気持ちもあり... ...。多くの人に言葉もかけてもらいました。ここまでフロンターレで築いてきたものがある一方で、自分に足りないもの、これからのキャリア、人生なども考えて」

それこそ多くの人と話した。大先輩の中村憲剛、大久保嘉人、家長昭博、山村和也から、常に切磋琢磨してきた小林悠、後輩の大島僚太まで... ....。

「嘉人さんには最初『ノボリは行かんほうが良い』と言われて。嘉人さんは背中を押してくれるタイプかと思っていたので『え?』となりましたが、それは僕の立場を考えてくれたからこそで、僕がフロンターレで多くの優勝を経験させてもらったという話をすると、『それはそうだな』と。そして『フロンターレもセレッソも良いクラブやし、そこは間違いない。人も良いし、そこの心配はないから、どっちの選択をしても正解だ』と話してくれました。

ヤマくん(山村)も電話をくれて、自分の選択をする材料をくれましたし、アキくん(家長)は『ノボリが出ていくのは考えてもなかった。でも、俺の意見というよりも、フロンターレにとってノボリは特別な存在だから、その視点で考えるべきかもしれない』とアドバイスをくれました。

(中村)憲剛さんは、『ワンクラブマンとして引退することは特別だし、そうした引退の形だったからこそ見えた景色もあった』と語ってくれました。憲剛さんとはいろんな話をしましたね。

コバくん(小林悠)はずっと一緒にやって来た特別な存在で、今後もともにプレーできれば幸せでしたし、この決断に至るまでふたりで泣きました」

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移籍を経験したことのない登里にとってクラブを代えるという行為は未知の領域だ。だからこそ様々な意見に耳を傾けた。

それでもなかなか考えはまとまらない。寝てもすぐに目が覚め、様々な想像が浮かんでくる。そんな時に隣でそっと頭を整理してくれたのは奥さんだった。

「考えがまとまらなかったので、移籍した時のことや、川崎に残った時のことなどをブツブツ呟いていると、『その考えはこうでこうだから』と全部、整理してくれました。

一度、奥さんにフロンターレに残ろうかと思うと伝えたんです。自分はフロンターレをもっと強く、大きくし、そしてピッチ内外で貢献できる自信はありましたし、15年積み上げてきて、そこから先、16年、17年、18年、19年と、続いていくチャレンジは自分にしかできない、そのチャレンジもしたいと話しました。

すると『それはすごく良いことで、チームのことを考え行動できる姿勢は尊敬できるし、その選択を尊重します』と言ってくれたんです。

でもどこかで引っかかっている自分がいて、また朝、起きて、いろいろ考えて、やっぱり違う場所でチャレンジしたいという想いが湧いてきて。すると『選手としても人としても絶対に大きくなるキッカケになると思うから、今までになかったことに挑戦する選択も尊敬します』と言ってもらえました。奥さんはどちらにしても背中を押してくれた。本当に感謝したいです」

ワンクラブマンが絶滅危惧種になった昨今のサッカー界で、登里は稀有な存在で、川崎で挑戦し続ける価値は十分にあると本人も理解していた。しかし、どうしても33歳で異なる環境へチャレンジしてみたいという気持ちは胸のなかから消えなかった。

「フロンターレにいれば絶対に居心地が良いんです。そしてこれまで通りのことをずっと貫ける自信はありましたし、成長できるとも思っていました。でもそれこそ、コバくん(小林悠)らだったら、想像以上の成長を示せるんだろうけど、自分の成長は想像できちゃう部分が正直なところあった。

だからこそ想像できないような経験、環境に飛び込み、また違う自分を見つけ、刺激を受ければ、さらに人としても成長できると考えました。想像できないことが自分にとって重要なことなのかなと。それが成功か失敗かって言われても、自分の選択すべてが成功だと僕は信じていますし、活躍できればなおさら良いなと」

チームメイト、これまで支えてくれた人々、決断を伝える際には何度も涙を流した。それでも周囲は背中を押してくれた。後輩らが次から次へと海を渡る姿も刺激になった。

「今は選手たちだけではなく、スタッフの方もそうですよね。みんなさらに高みを目指して怖がらずにチャレンジへ踏み出している。

自分もそういう決断をして、川崎の選手がどんどん外に出ていくキッカケになりかねないか、正直心配もありました。そこを考えて残ろうともしたほどです。フロンターレは憲剛さんのようにワンクラブマンを大事にしていましたし、自分も残って後輩たちに引退していく姿を見せる必要があるとも感じました。

でも、それでも決断した。だからこそ、覚悟はあります」

家族の存在も心強かった。こんな感動的なエピソードがある。

「決断を伝えた時はみんな泣いていました。そりゃ川崎でずっと生活し、それこそ奥さんはママ友や、子どもたちは友だち、幼稚園や学校がありましたから。

でもその時、5歳の次男が涙を堪えながら、僕らのことを考えてくれたんでしょうね、『大阪、楽しみ、ジジ、ババの家に行けるね』って言ってくれたんです。そんな姿を見るのは初めてだったので、『こんな強い一面があったのか、こんなことを言えるようになったのか』とまた泣けてきてしまって。長男もそっと支えてくれた。

家族みんなでいれば、どこにいたって間違いないです。改めてそう思えましたし、みんなで力を合わせてやっていったら良いよねと、パワーをもらいました」

こうして登里のC大阪での挑戦がスタートしたのである。

■プロフィール
のぼりざと・きょうへい/1990年11月13日生まれ、大阪府出身。168㌢・68㌔。EXE’90FC―香川西高―川崎。J1通算280試合・9得点。周囲に柔軟に合わせるいぶし銀の左SB。

後編へ続く

取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)

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