双子の長女に続き、1347gで生まれた長男も脳性まひに。歩行に困難があることを理由に入園できる幼稚園がないっ!【体験談】

長男が生後2週間目ごろの様子。

NPO法人かるがもCPキッズ(脳性まひの子どもとパパママの会)代表理事であり、社会福祉士でもある江利川ちひろさん(48歳)は、女の子の双子(17歳)と息子(16歳)の母です。
子どもは3人とも1500g未満の極低出生体重児で生まれました。その影響で長女と長男には脳性まひがあり、長女は重症心身障害児、長男はひざ下が不自由な軽度肢体不自由児です。ちひろさんに、双子と年子で生まれた長男の成長の様子について話を聞きました。
全4回のインタビューの2回目です。

妊娠28週で双子を出産。長女だけが脳性まひと診断され…。『早産さえしなければ』と自分を責め、涙が止まらなかった【体験談】

第3子も切迫早産で安静入院に。双子のお世話は夫婦の両親がサポート

双子を妊娠8カ月で早産し、長女・ゆうさんは生後3カ月ごろに脳室周囲白質軟化症(以下、PVL)と診断。PVLの後遺症である脳性まひがあります。さらにゆうさんは、1歳になるころ合併症のウエスト症候群を発症し、てんかん発作のために長期入院することに。
そのころ、ちひろさんのおなかには新しい命が宿っていました。「もし3人目の子も早産になったら、長女と同じPVL になってしまったら・・・」と悩みながらも、ちひろさんは3人目を産み、育てることを決めます。

「私が本当に恵まれていると思うのは、夫の両親が私や子どもたちをとっても大事にしてくれていることです。障害がある長女のことも、ほかの孫たちと同じようにかわいがってくれています。さらに夫の妹は保健師で専門的な知識があり、義父母に双子の発達についての不安がないように説明をしてくれ、育児に全面的に協力してくれていました。

そんな家族だったので、私の両親も含め2回目の妊娠がわかって、反対する人は1人もいませんでした」(ちひろさん)

双子のときと同様に切迫早産の可能性があったちひろさん。2回目の妊娠では、妊娠23週のころ、おなかの張りが頻繁になり入院することになります。

「そのころには、長女はウエスト症候群の症状が少し落ち着き、退院して在宅で過ごせるようになっていました。私の切迫早産の入院にあたって、お互いの両親と一緒に双子のお世話について相談し、それぞれの実家に双子の1人を1週間ずつ預かってもらうことになりました。
当時、双子は週に1回、同じ時間に病院でリハビリを受けていたので、そこへ両家がそれぞれ双子を連れて行ってリハビリをし、帰りは長女と二女をチェンジして次の1週間預かってもらう、という形です。

今思い出しても、なかなかの連携プレーです。長女は首もすわらず、薬の服用が必要だったりしたので、両親たちの協力には本当に感謝しています。私と夫の実家の最寄り駅が同じだったので、母親同士が一緒に行動できたことも幸運でした」(ちひろさん)

小さいながらも、元気な産声をあげて生まれてきた息子

長男が4歳のとき。ハワイの砂浜でパパと一緒に砂遊び。

切迫早産で入院したちひろさんは、子宮収縮をおさえる薬(ウテメリン)の点滴投与を受けることになりましたが、妊娠28週ころから肝機能障害が現れてしまいました。

「妊娠29週のころ、これ以上妊娠を継続すると、私の肝機能障害によってきれいではない血液が赤ちゃんに回って赤ちゃんが血流障害を起こす可能性があるということで、ウテメリンの投与を中止。その数日後に陣痛が来て、帝王切開出産となりました。長男の出産後にわかったことですが、1回目の双子の妊娠のときにも同じような状況だったこともあり、どうやら私はウテメリンにアレルギーがあったようです。その反応によって、妊娠中の2回とも肝機能障害を起こしてしまっていたらしいです」(ちひろさん)

2007年12月に生まれた第3子は、1347gの男の子でした。

「クリスマスシーズンだったこともあり、クリスマスソングが流れるオペ室での出産でした。息子は生まれた瞬間、へその緒がついた状態で産声をあげたんです。すごく元気な声に少し安心しました。双子の出産のときはかなり緊迫した雰囲気だったのですが、そのときの空気とはうって変わって、助産師さんや看護師さんみんなが「おめでとう!」と祝福してくれました。週数は早く生まれたけれど、自分のおなかから生まれた赤ちゃんにその場ですぐ会うことができ、すぐ胸に抱くこともできました。本当にかわいかったです。

生まれたときは元気だった長男ですが、主治医の話では出生後夜中に呼吸状態が悪くなり気管挿管をしたそうです。それから無呼吸発作といって、呼吸が止まってしまうことも増え始めました。
長男も極低出生体重児だったので、3カ月ほどNICUに入院しさまざまな処置を受け、退院前に 双子のときと同じようにMRI検査で脳の状態を見ることに・・・。

その結果、長男にもPVLが見られることがわかりました。ただ、MRI画像を見せてもらうと、長女の脳の様子とは全然違っていました。長女の場合は脳に黒っぽい丸がんぽんぽんと、たくさん見られましたが、長男の場合は脳の端っこに、ちょっと色が変わっている部分が『ぼや~っ」と見える感じでした。ただ、医師の説明ではPVLによる脳性まひの症状が、長女とどのくらい違うのかは、育ってみないとわからないということでした」(ちひろさん)

長女も長男も脳性まひ、でも症状は異なった

長男が2歳のころ。足が不自由でしたが、それ以外は順調に成長していました。

脳性まひと診断され、2008年の2月に退院した長男・こうくん。その成長の様子は、ゆうさんのときとは違いがありました。

「脳性まひは、生まれるときに脳がダメージを受けた場所によって、どんな後遺症が現れるかは人によって違うということでした。息子の場合は、成長とともに足がかたくなり始めました。足首が突っ張って、鉄板が入ったように硬直するので、足首が動かない、回らないんです。足首がかたいと、立つときにかかとが浮いてつま先立ちになってしまいます。

息子の場合はその足首の症状以外は定型発達の子と同じように発達していきました。それは、長女と違うところでした。
首がすわって、目が合うようになって、笑うようになりました。寝返りもおすわりもできるようになって。ごはんもそのうち普通によく食べるようになりました。手を使えるようになり、言葉も話すようになったんです」(ちひろさん)

こうくんにはひざ下の不自由さがあり、手にも多少の不器用さはありましたが、言葉でのコミュニケーションにもまったく問題はなく、座った状態だとどこに障害があるのか全然わかりませんでした。
ちひろさんたちが住む自治体では、障害のある子は児童発達支援センターへ通うこと多かったのですが、ちひろさんはこうくんに幼稚園での教育を受けさせたい、と考えるようになります。

「当時、重度心身障害児の認定を受けていた長女は児童発達支援センターに通い、二女は私立幼稚園に通っていました。長女は、児童発達支援センターの恵まれた環境で、彼女の個性を最大限伸ばすかかわりをしてもらっていました。
ただ、そこでは当時、長女のように子ども同士のコミュニケーションを取ることが難しい状態のお子さんが大半でした。息子がそこへ通うと考えると、同世代のお友だちとのコミュニケーションの機会がたりなくなると感じました。

息子には将来的には障害をもちながら自立をして生きていってほしいと考えていて、早い時期から集団生活を経験させて社会性を身につけてほしいと思っていました。お友だちと一緒に学んだり遊んだりする、幼児期では当然の成長の機会を作ってあげたかったんです」(ちひろさん)

こうくんが成長するにつれて、こうくんに教育を受けられる環境を作ってあげたい、という気持ちはちひろさんの中でどんどん強くなっていきました。しかし、市内の幼稚園すべてに問い合わせても、一人で歩けないこうくんを受け入れてくれるところはありませんでした。

「どうして日本ではだめなんだろう?」悲しい顔でつぶやいた夫

長男が4歳のころ、ハワイで。足が不自由な長男も浮き輪をすれば海で遊べます。

こうくんの入園先を探していた2010年の夏ごろ、ちひろさんたちは、夫と子ども3人とちひろさんの両親と一緒にグアム旅行に行きました。その滞在中に、日本との大きな違いを感じたと言います。

「当時、わが家は長女も長男も移動に車椅子やベビーカーを使っていましたが、グアムでは移動がとてもスムーズだと感じました。どのドアにも車椅子マークのボタンがあり、それを押すとドアが自動で開きます。自動ドアがない場所でも、すれ違う人が当たり前のようにドアを開けてくれたり、レストランの店員さんや街で出会った人、みんなが車椅子の子どもたちに『かわいいね』と声をかけてくれる、自然な優しさがありました。

グアムでの旅行を楽しんでいたある日、家族で海で遊んでいたときのこと。浮き輪をしてプカプカと遊ぶ長男を見て、夫が『ここではこんなにかわいがってもらえるのに、どうして日本ではだめなんだろうな』とつぶやきました。私も夫も、長男の就園の壁にぶち当たり、日本での居場所のなさを感じていたのです。

『こんなきれいな海を見ながら、こんな優しい人たちに囲まれて育ったら、息子はいい子に育つんだろうな』と、いつもポジティブで冷静な夫にしてはめずらしく、悲しそうな顔をしていました」(ちひろさん)

お話・写真提供/江利川ちひろさん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

ちひろさんは、双子を出産する前に務めていた会社に、産休・育休を取得して在籍を続けていましたが、長女ゆうさん、長男こうくんの毎週のリハビリや、ゆうさんのウエスト症候群の通院もあったことなどから、こうくんが3歳になるころに仕事を退職することにしたそうです。
次回の内容は、ハワイの幼稚園でインクルーシブ教育に出会ったことについてです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年2月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

江利川ちひろさん(えりかわちひろ)

PROFILE
1975年生まれ。NPO法人かるがもCPキッズ(脳性まひの子どもとパパママの会)代表理事、社会福祉士・ソーシャルワーカー。武蔵野大学大学院 人間社会研究科 実践社会福祉学専攻。双子の姉妹と年子の弟の母。 長女は重症心身障害児、長男は軽度肢体不自由児。

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