脳性まひの長男の入園を市内すべての園に断られ、ハワイでの通園を決意。相談した医師の言葉に涙したことも【体験談】

ゆうさんとぴぴさんが6歳、こうくんが5歳。こうくんの七五三の記念に写真館で撮影したもの。

女の子の双子、ゆうさん・ぴぴさん(17歳)と、息子のこうくん(16)の3人の母である社会福祉士の江利川ちひろさん(48歳)。子どもは3人とも1500g未満の極低出生体重児で生まれ、長女と長男に脳性まひがあります。
障害がある子の子育ての中で、ちひろさんは滞在していたハワイでインクルーシブ教育に出会います。インクルーシブ教育とは、障害の有無にかかわらず、すべての子どもがともに学ぶしくみのこと。ハワイの生活で経験した障害児とその家族のサポートについて、ちひろさんに話を聞きました。
全4回インタビューの3回目です。

双子の長女に続き、1347gで生まれた長男も脳性まひに。歩行に困難があることを理由に入園できる幼稚園がないっ!【体験談】

市内すべての幼稚園に入園を断られた

こうくん1歳のころ。パパが趣味で弾くジャズギターに興味津々。

ちひろさんの長女・ゆうさんは重症心身障害児、長男・こうくんはひざ下が不自由な軽度肢体不自由児です。 足が不自由なこうくんは身体障害者手帳を取得していて、その等級は1〜7級まである中の2級でした。自分1人で歩くことは難しい状態です。足の不自由さはあるものの、知的な遅れは見られず、言葉でのコミュニケーションにもまったく問題がなかったため、ちひろさんはこうくんに幼稚園で教育を受けさせたいと考えます。ですが、市内のすべての幼稚園に問い合わせをしても、こうくんを受け入れてくれる園は一つもありませんでした。

「どこも障害がある子をみるための人手がたりない、経験がない、施設がバリアフリーではないといった理由で『歩けない子の入園は難しい』と断られてしまいました。二女が通っている幼稚園もだめでした」(ちひろさん)

留学エージェントに問い合わせた5週間後に、渡米することに

ハワイではゆうさんも海で遊ぶことができました。

こうくんが教育を受けられる場所をいろいろと探したちひろさんは、あるときインターネットで、日本人の子ども向けのハワイ留学エージェントのサイトを見つけました。「日本ではなくハワイなら、息子に教育を受けさせることができるかもしれない」と考えたちひろさん。ハワイには一度も行ったこともなく、英語も流ちょうには話せませんでしたが、わらにもすがる思いでメールで問い合わせたと言います。

「体が不自由な子どもがいること、今住んでいる地域では幼稚園や学校に行くことができないかもしれないこと、短期間でもプリスクール(幼稚園)に入れてお友だちを作ったり教育を受ける機会を与えたいこと、でもハワイにはまったくつてがないことなどを、アメリカで仕事をしていた父の助けを借りてなんとか英語でメールに書きました。

すると、そのエージェントのティナさんという女性からすぐに日本語で返事が来ました。ティナはミドルネームで、アメリカ人と結婚した大阪出身の日本人女性でした。彼女は『アメリカの教育の基本はインクルージョンです。 しっかりサポートするので、思いきってハワイに来てみませんか』と言ってくれました。それまで私は、『インクルーシブ教育』という言葉も知りませんでしたが、こんなに寄り添ってくれる人がいるとわかり、前向きな気持ちになれました。ティナさんがすぐにプリスクールの手続きをしてくれ、問い合わせのわずか5週間後、2011年12月に渡米することになりました」(ちひろさん)

「ハワイで育ったほうがいい」の言葉に涙した

ハワイのプリスクールで過ごすこうくん(白いTシャツの男の子)の様子を、ちひろさんがこっそり撮影。

ハワイでどんな生活になるかわからなかったため、初回の渡米では、ちひろさんはゆうさんを実家に預け、幼稚園年中だった二女・ぴぴさんと3歳のこうくんをつれて、まずは約2カ月間を過ごしてみることに。ハワイの幼稚園や学校に日本人が留学する際には、現地の小児科クリニックでツベルクリン検査やレントゲン撮影をする必要がありますが、ティナさんが、医師もスタッフも全員日本人のクリニックを手配してくれました。

「そのとき、日本では居場所がないと感じていた私は、本気でハワイへの移住を考えていました。だけど、脳性まひの長女の医療ケアのことや、肢体不自由の息子のリハビリのこともなにもわかりません。そこで、検査をしてくれたクリニックの医師に、息子は足が不自由で幼稚園の受け入れ先がみつからないこと、日本の小学校の通常学級に通えないかもしれないこと、できれば航空貨物事業をしている夫の会社でビザを取って移住し、ハワイのプリスクールに通わせたいと考えていることを相談しました。

するとその医師はこう言ったんです。『アメリカ人はだれかが何かをしようとしたときに、絶対に止めないんだ。彼はここにいれば、野球でもサッカーでも水泳でも好きなことができる。これから先、彼の可能性は彼が自分で決めていくことができるんだよ。環境が整うなら、絶対にハワイで育ったほうがいいと思う』と。医師のその言葉を聞いて、涙がこぼれました。

当時は、歩けない=特別支援学校という概念が当たり前だった日本と、自分の可能性を自分で決められるアメリカ。ここなら私たちの居場所があるのかもしれない、と感じました」(ちひろさん)

ちひろさんはゆうさんの医療的ケアについても医師に相談しました。すると、当時ゆうさんが日本で利用していたエンシュアという栄養剤が、アメリカでは処方せんの必要なくスーパーで購入できるとわかりました。
さらに当時はオバマ大統領による「オバマケア」と呼ばれる医療保険制度改革法が成立した時期で、月に80ドルくらい支払えばゆうさんも医療を受けられると聞いたそうです。ちひろさんは「ここなら長女も暮らしやすいかもしれない」と移住への思いを強くしました。

ソーシャルワーカーとの出会い

ハワイ滞在中に、ソーシャルワーカーの女性と一緒に。

障害のある子とその家族についてのサポートについて、ちひろさんが日本とハワイ州のさらに大きな違いを感じたのはソーシャルワーカーを中心とするIEP(Individualized Education Program)という個別教育プログラムが確立されていることでした。

「ハワイのIEPは、障害のある子の家族に国家資格を持つソーシャルワーカーが1名つき、そのソーシャルワーカーが中心になって、家族・医師・PTやOTなどのセラピスト・学校や幼稚園の担任とを連携するシステムです(州により、多少異なります)。ハワイでは、ソーシャルワーカーの拠点は地域の小学校にあり、障害のある子の通院やリハビリや通学の調整や家族支援を行います。
ソーシャルワーカーを中心に、子どもたちの主治医や学校の担任やセラピストが、カルテなどの情報を共有し、さらに家族をひとつのチームとみなし、家族全員にどんなサポートが必要かを一緒に考えてくれるのです。私にそのことを教えてくれた医師は『困ったことはソーシャルワーカーがすべて対応してくれるから、あなたが動かなくて大丈夫。あなたに無料で優秀な秘書がつくんだよ』と言ってくれました。

私はソーシャルワーカーという職種があることもそのとき初めて知りました。日本では、障害のある子がリハビリをうけるにも、病院にかかるにも、保護者が調べて紹介状をもらい、自分で連絡をしなくてはなりません。こんなシステムを日本に持ち帰ることができれば、私のようにどこに相談したらいいかわからず孤立する人が絶対に減るはずだ、と思いました」(ちひろさん)

足が不自由でもつき添いなし、息子はハワイの通常級で過ごせた

ぴぴさん5歳、こうくん4歳。ハワイのプリスクールのクラスでパチリ。

こうくんがハワイのプリスクールに入園後、ちひろさんは担当のソーシャルワーカーと面会しました。その際に最初に言われたひと言が忘れられないそうです。

「『あなたは絶対に頑張っちゃだめだよ。ママがいつも笑顔でいるために私たちがいるんだから』って言ってくれたんです。日本では『私が頑張らなければ息子は入園も進学もできない』といつも思っていたので、その言葉にすごく救われました。日本とは真逆の考え方でした」(ちひろさん)

ちひろさんたちがハワイに渡った翌週から、こうくんのプリスクールでの生活が始まりました。こうくんは通常級に入ることになります。そこには障害児と健常児が区別なく学ぶインクルーシブ教育がありました。

「息子が通ったプリスクールは教会に併設された小さな園でした。私は日本の感覚で、しばらく保護者のつき添いが必要だと思っていましたが、ディレクターに『まったく必要ない。どうしてそんなことを言うのか?』と不思議がられました。 アメリカには障害のある子どもに保護者がつき添う文化がありませんでした。

足が不自由というだけでなく、言葉の壁や文化の違いなどもある息子が、本当に1人で大丈夫?と初めは心配でした。でもそのプリスクールでは、お友だちが物を取ってくれたり、日系人のお子さんが英単語を訳してくれたりして、息子はつき添いなしで朝8時から16時まで、朝食・昼食・お昼寝・おやつの時間も1人で過ごすことができたのです。そして、息子が園で過ごす姿を見ているうちに、ハワイのローカルな園でできることが、どうして日本の教育現場ではできないのだろう、と考えるようになりました」(ちひろさん)

ちひろさんたちは2カ月をハワイで過ごし、いったん帰国。その次からはゆうさんも一緒に、ちひろさんが3人の子どもを連れてハワイへ。ぴぴさんの日本の幼稚園の長期休みに合わせて渡米し、ぴぴさんとこうくんがプリスクールに通いながらまた1〜2カ月を過ごし、日本に帰国する、ということを何度か繰り返す生活をし始めました。ビザがなかったため90日以上の滞在はできず、そのような形を選んだそうです。

「ハワイは路線バスなどの公共交通機関がとても利用しやすく、運転手さんが車椅子を固定している間、だれもが優しく接してくれました。教育現場に限らず、こうした障害に対する偏見の無い文化や生活環境により、大人が私1人という状況でも3人の子どもと生活することができたのだと思います」(ちひろさん)

お話・写真提供/江利川ちひろさん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

障害のある子とその家族のサポートについて、日米での大きな違いを感じます。次回の内容は、脳性まひがある子を育てる経験をいかし、ちひろさんが仲間とともに立ち上げたNPO法人の活動などについてです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年2月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

江利川ちひろさん(えりかわちひろ)

PROFILE
1975年生まれ。NPO法人かるがもCPキッズ(脳性まひの子どもとパパママの会)代表理事、社会福祉士・ソーシャルワーカー。武蔵野大学大学院 人間社会研究科 実践社会福祉学専攻。双子の姉妹と年子の弟の母。 長女は重症心身障害児、長男は軽度肢体不自由児。

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