安否不明だった「輪島塗」蒔絵師の島田さん、地震で犠牲に 家族や友人ら、ふるさとで早すぎる別れ惜しむ 兵庫・三田

亡くなった島田怜奈さんの遺影と作品を前に、元日からの心の動きを振り返る父富夫さん=三田市内(撮影・吉田敦史)

 能登半島地震で長く安否不明になっていた兵庫県三田市出身の島田怜奈さん(36)の死亡が、16日に発表された。「輪島塗」の蒔絵師として伝統工芸に打ち込んでいたが、石川県輪島市の自宅兼工房が大火にのまれた。母裕子さん(65)は「今もかわいい娘のまま。いないとは思っていない」と声を絞り出す。25日、三田市内でお別れ会が開かれ、同級生らが早すぎる別れを惜しんだ。(橋本 薫)

 怜奈さんは裕子さんの故郷である北海道網走市で生まれ、2歳になる前から高校まで三田で暮らした。つつじが丘小学校の頃から絵が好きで、父富夫さん(72)は「漫画のキャラクターなんかを描いてたな」とぽつりとつぶやく。

 姉琴美さん(38)の影響で藍中学校では剣道部に所属。3年の夏に明石高校(兵庫県明石市)を見学し、美術科への進学を決意した。通学に2時間かかったが、土曜もデッサンで学校に赴くなど充実の日々を過ごした。

 クラフトデザインを専攻し、高3で漆芸に出合ってのめり込んだ。秋田公立美術工芸短大(当時)を経て、2008年に石川県立輪島漆芸技術研修所(輪島市)の蒔絵科へ。卒業後は師匠に弟子入りし、18年に独立した。

 昨年の正月は帰省したが、今回は仕事がたまっているからと、輪島にとどまった。裕子さんは「『早くしないからだよっ』て小言を言ったの」とうつむく。

 元日の昼、怜奈さんからは漆器に盛られたおせち料理の画像が家族のLINE(ライン)に送られてきた。その後、石川を地震が襲った。家は大規模火災が発生した「朝市通り」の近く。電話はつながらず、ラインも既読にならなかった。いつも返信は遅い方。逃げていると願った。

 早く捜しに行きたかったが、道路事情が悪く二の足を踏んだ。1月10日、石川県警輪島署から「娘さんの住居跡とみられる場所から1人の遺体が見つかった」と連絡が入った。家族3人で三田を出発し、大渋滞などに阻まれて輪島入りは13日。焼け跡は眺めるだけだった。それでも「記憶喪失になって病院にいるのでは」と生存を信じたが、2月2日、DNA型鑑定で身元が判明したと知った。

 自宅は中古の一軒家だった。「古い家に住んでるんだから地震対策しときなよ」。裕子さんは怜奈さんとの会話を思い出す。家は焼け焦げ、遺品と呼べるものはなかった。ただ、離れた駐車場に止めてあった車だけは火災を逃れていた。

 職人としての道を切り開いていた中、地震に奪われた命と未来。富夫さんは「遠くにいて普段は意識しなくても、空気や水のようになくてはならない存在なんです」と声を詰まらせた。

 お別れ会には同級生や仕事仲間ら約70人が参列した。怜奈さんの等身大パネルを囲んで写真撮影したり、昔の写真を懐かしそうに眺めたりしてしのんだ。

 小中学校で同級生だった広川理恵さん(36)と黒河祐美さん(36)は「友人が多くユーモアがあった。今でも信じられない」と涙をぬぐった。高校の同級生松本侑子さん(36)は「黙々と制作している姿が印象的だった。夢に向かって取り組み、格好良かった」と話す。会場には職人になってからの作品の写真も飾られ、富夫さんは「こんなん作っていたんだな、と涙が出てきた。いろんな人と娘の話ができてよかった」としみじみうなずいた。

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