世界随一の「リベロGK」はこうして誕生した!「サイドバックとしてはスピードとスタミナが不足していたが…」マンCの守護神エデルソンのルーツを探る

フィールドプレーヤー顔負けのボールスキルにフィード技術、ミスを恐れないハートの強さを武器に、ペップ・グアルディラオ率いるマンチェスター・シティのフットボールを最後尾で支えるエデルソン。ブラジルで育まれた“リベロGK”のルーツを探る。

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「サンパウロの西に隣接する商工業都市オザスコの貧しい家庭に生まれたエデルソンは、3人兄弟の末っ子で、ブラジルの多くの子どもと同様、物心がつく頃から路地や広場で近所のサッカー仲間とボールを蹴り始めた。同年代の中ではつねに大柄だった。

8歳のとき、市が運営するフットボールチームに加入。最初は左SBだった。当時の監督だったジッバは言う。

「左足のボール扱いが上手く、センスを感じさせた。ただ、サイドバックとしてはスピードとスタミナが不足していて、攻撃に参加すると戻ってこられない。そんな課題を抱えていた。さすがにこれでは務まらないので、体格を考慮してゴールキーパーにコンバートしたのさ」

この決断が大正解だった。

「エデルソン本人はコンバートを嫌がった。ブラジルでは『フィールドプレーヤーが務まらない下手な奴がやるポジション』という悪いイメージがあるからね。でも、ゴールキーパーの基礎だけを教えて紅白戦に出したところ、いきなり好セーブを連発したんだ。しかもフィードが素晴らしく、攻撃の起点にもなれる。ほどなくしてレギュラーを掴んだよ」

小学校のフットサルチームでもGKを任された。決定的なシュートを跳ね返しながら、機を見たドリブルで持ち上がって決定的なパスを出したり、ロングシュートを叩き込んだりと大奮闘。リベロGKとしての才覚は、この頃から突出していた。

名門サンパウロFCのスクールに入ったのが11歳。「優秀な若者にはアカデミーの入団テストを受けるチャンスを与える」が、スクールのいわば謳い文句だった。

エデルソンの地元の友人で、ともにサンパウロFCのスクールに通ったセベーロは、当時のハードな日々をこう振り返る。

「練習は週3回だけど、朝5時に起きてバスを3本乗り継いでトレーニング場まで通うんだ。練習が終わるとまたオザスコまで戻って、小学校に登校する。もうヘトヘトだったよ」

その頃のエデルソンのアイドルは、サンパウロFCに所属していた元ブラジル代表のロジェリオ・セニ。GKでありながら直接FKの名手で、15年の引退までキャリア通算103ゴールを挙げた異色の守護神だ。そんなレジェンドに憧れたエデルソンは、チームトレーニングが終わると連日、FKやフィードの個人練習を積んだ。

08年、14歳でサンパウロU-15のテストを受けて合格。以降、本気でプロを目指すようになる。だが、順風満帆には進まなかった。U-15で味わったのは、ベンチを温める辛く苦しい日々だった。

迎えた09年12月、クラブ関係者から自宅に一本の電話がかかってきた。対応した母親に告げられたのは、次の言葉だった。

「残念ですが来年、クラブに息子さんの居場所はありません」

ブラジルのアカデミーは、毎年末に誰をチームに残すか、退団させるかを決めるのが通例だ。母親から電話の内容を聞いて真っ青になったエデルソンは、自身の部屋に閉じこもり、一日中、泣き続けた。

後にエデルソンは、当時の辛さをこう述懐している。

「せっかく名門クラブのアカデミーに入って、セニのような名ゴールキーパーになるぞと思って一生懸命にトレーニングに励んでいたのに……。わずか2年で退団だからね。プロになる夢が潰えたと、目の前が真っ暗になった。しばらくは練習どころかボールを見るのも嫌だった」

しかし、どうしてもプロになる夢を諦めきれなかったエデルソンは、悶々とした数日を過ごした末にひとつの決断を下す。かつて在籍した市営のチームに戻り、練習をスタートしたのだ。思わぬ形で再会することとなった監督のジッバは、

「鬼気迫る表情でセービング、キャッチング、フィードなどの技術練習を繰り返し、厳しいフィジカルトレーニングにも黙々と取り組んでいた。本当にサッカーが大好きで、何が何でもプロになるという、そんな覚悟を感じたよ」

と当時の様子を振り返る。

思いもよらぬ幸運が舞い込むのは、退団を言い渡されてから1か月も経たない12月末。きっかけは、ポルトガルの名門ベンフィカの関係者からサンパウロのアカデミーに届いた要望だ。

「U-17世代のゴールキーパーを探している。誰か目ぼしい選手を紹介してほしい」

実は、エデルソンを退団させる決断についてはサンパウロの内部でも議論が交わされ、なかには「現時点では力不足だが、将来有望な選手であるのは間違いない。チームに残すべきだ」という意見も少なくなかった。そうした“支持派”の後押しもあり、サンパウロは「大柄でキャッチング技術に優れ、身体能力が高く、足下のスキルも兼ね備えた16歳がいる」と返答。するとベンフィカのU-17の入団テストを受ける機会が与えられ晴れて合格。10年1月にポルトガルに渡ったのだった。

ポルトガルでの生活にも問題なく馴染み、U-17でレギュラーの座を掴むと、10年7月にはU-19へと昇格。だが、このカテゴリーでは控えに留まり、1シーズン限りで退団を余儀なくされる。心機一転、11年7月に渡った3部のリベイロンで29試合に出場して実戦経験を積み、1部のリオ・アベへと再びステップアップを果たすと、在籍した3シーズンで公式戦63試合に出場。その活躍を見たベンフィカが15年7月、ポルトガル国内で定評を確立しはじめていたエデルソンを買い戻すのだ。

そのベンフィカで輝くのは入団2年目の16-17シーズン。同胞の正GKジュリオ・セーザルの故障離脱で出番が回ってきたそのチャンスを見事に掴み取り、レギュラーとして躍動したエデルソンは、27試合に出場してチームのリーグ4連覇に貢献する。そして17年7月、GKとしては当時史上二番目となる4000万ユーロの高額移籍金で、ジョゼップ・グアルディオラ率いるマンチェスター・シティに迎えられたのである。

エリート街道を歩いてきたわけでは決してない。泥水もすすった。そんな中でも絶やさなかったのは、サッカーへの情熱と向上心。ミスを恐れないハートの強さ、フィールドプレーヤーに勝るとも劣らないボールスキルとフィード技術は、苦労と練習を重ねてきたエデルソンのまさに財産だ。

文●沢田啓明

【著者プロフィール】
1986年にブラジル・サンパウロへ移り住み、以後、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトなどに寄稿しており、著書に『マラカナンの悲劇』、『情熱のブラジルサッカー』などがある。1955年、山口県出身。

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