「稼いでないのにやる意味あるの?」高収入妻に言い返せない男が“無茶ぶり上司”から逃げる方法

床をたたくスリッパの音で目が覚めた。

篤史はゆっくりと体を起こす。体は重い、それでも起きなくてはいけなかった。

篤史は小さな広告代理店に勤めていて、そこでは主に映像編集のディレクターをしていた。会社は薄利多売で業績を残していて、そのため篤史にはとにかく膨大な量の仕事がのしかかっていた。

寝ている暇なんてない。

篤史はそう自分に言い聞かせて洗面台に向かい、顔を洗った。

鏡に映る篤史は、ひどく疲弊していた。疲れという代物はどれだけ顔を洗っても落ちることはない。それでも篤史はしつこく顔を洗い続けた。

40歳が近くなって自分がこんな顔をしているなんて夢にも思わなかった。

リビングに行くと、妻の千穂が篤史の分の朝食を用意してくれていた。

娘の穂波はまだ寝ている。千穂も穂波と一緒に朝食を取るため、1人だけの朝ご飯になる。夜も篤史は残業が多く、家に帰ってきたときはもう穂波は寝ている場合が多い。

だから篤史はずっと食事を1人でしている。穂波とはもう何年もまともに口を利いていない。それでも篤史は文句を言わずにみそ汁をすすった。

「今日も遅くなるの?」

「……ああ」

これはもう何度も繰り返されている夫婦間の会話だ。返事は毎回同じなのに千穂はこの質問を毎朝してくる。

「千穂はどうなんだよ?」

「私は別に」

千穂は人材会社で仕事をしている。普通にCMで流れてくるような大手の会社だ。そんな会社だからこそ、福利厚生がしっかりしていて、千穂は仕事も家族との時間も両立することができていた。

「そもそもうちは残業禁止だから」

そんな会社はごまんとある。うちだってそうだ。しかし実際に実現できているのはわずかだ。

まったく勤務時間が違うにも関わらず、稼ぎは圧倒的に千穂のほうが上。その点で篤史は千穂に対して劣等感を抱いていた。

「来月、運動会だからね。分かってるわよね?」

篤史は少し固まって、返事をする。

「……当たり前だろ」

正直、忘れていたが、もめたくないのでうそをついた。

「あの子、小学校最後の運動会だから、2人そろって行くって約束したのよ。だからお願いね」

「分かってるよ」

篤史はそう答えると、食事を終えてすぐさま出勤の準備に入った。

夢見た仕事、でも現実は…

そもそも広告代理店に入ったのは学生時代に見たドラマがきっかけだった。主人公が自分のアイデアでヒット作品やCMを作るというそのドラマに篤史は夢中になる。

そこから広告代理店で働くことを夢見るのは至極当然のことだった。しかしドラマで見たような大きな仕事をやれるのは超大手の広告代理店のみ。最初はその現実に落胆したが、幸運な点もあった。

ネットの普及により、Web媒体でのみ配信するCMなどの仕事を請け負えるようになったのだ。

もちろん、憧れていたものとはかけ離れている。いつか自分がデザインしたポスターが都内のビルにでかでかと貼られるようなことはない。それでも自分の作品がネットという場所に発信できているということにやりがいを感じていた。

そうして篤史は仕事を誰よりも頑張り、今ではディレクターを任されるまでになった。

しかし喜んでばかりはいられない事情もある。篤史がパソコンで編集作業をしていると、上司から呼び出しを受ける。

「木下、この企画なんだが、お前、やってくれよ」

その瞬間に脳が固まるような感覚になる。

話を聞くと、先輩社員が担当だったのだが、納期に間に合わないと上司に泣きついたらしい。

「だからさ、お前が代わりにやってくれ。納期が差し迫っているから、こっちを最優先でさ」

上司は簡単に提案するが、その納期の迫った最優先事項を篤史は現状で幾つも抱えていた。しかしクライアントからの仕事を無碍(むげ)にするわけにもいかない。

結局、篤史は渋々この仕事を請け負う。

また……残業か。

そこで篤史は定時に帰った記憶を思い返そうとする。しかし全く記憶になかった。もしくはそんなことは一度もないのかもしれない。

そしてこんな経験を千穂はしたことがないのだろうなと思っていた。

妻からの辛辣な言葉

それから1カ月後、久しぶりに家族3人そろって晩ご飯を食べることができた。

穂波は、千穂とばかり会話をしていて篤史を見ようとはしない。普段なら、その会話にしっかりと聞き耳を立てているのだが、今日はその余裕もなかった。

頭の中は仕事で一杯だった。いきなり社員が会社を辞めたのだ。

そうなると必然的に仕事量が増える。その中でも1番経験のある篤史にはたくさんの仕事が振られることになった。

「ねえ、あなた、聞いてるの?」

思わず顔を上げると、穂波と千穂がこちらを見ていた。

「え、何?」

「もう、運動会のことよ。ちゃんと休みは取ったの?」

千穂の言葉を聞き、篤史はがくぜんとした。完全に忘れていたのだ。

「あ、いや……」

瞬時にその空気を察したのだろう。穂波が立ち上がる。

「別にいいよ。今までだってお父さんは来なかったんだし」

穂波は冷たく言い放って、リビングから出て行った。穂波を呼び止めようとしたが、肝心の言葉が出なかった。

そして重苦しい空気の中、千穂が大きくため息をついた。

「……私、前から言ってたわよね?」

そこで篤史は事情を説明する。

「だから、仕方ないんだよ。これだって仕事なんだから……!」

言い訳だと自覚しながらも篤史はそう話した。

そんな篤史を千穂は冷めた目線で見る。

「稼いでないのにやる意味あるの?」

心臓を一刺しされたような痛みがあった。そして内臓から熱いものが吹き出る。それは熱い溶岩のような怒りだった。

「な、何だよそれ?俺だって、一生懸命やってるんだよ……。それを稼いでないって、よく、言えるよな……!」

「一生懸命なのは認めるけど、結果に出てないじゃない……!」

千穂も静かな怒りで言い返してくる。

「何だよ結果って……? 金稼ぐことだけが全てじゃないだろ!」

「そうよ⁉ でもあなたは稼げもしない仕事をずっとやって、家庭に何も還元してないじゃない! 私は仕事もして、育児も家事も全部やっているのよ! それなのに、仕事をしているっていう顔しないでよ!」

篤史は言葉に詰まる。千穂の言うことは正しい。しかし自分が間違っているとも思いたくなかった。

「お、俺は今の仕事に就くのが夢で、それでやりがいだって……」

そこで言葉が切れる。視界がぐにゃりと曲がり、頭がドスンと重くなった。

「何よ、言ってみなさいよ!」

千穂の声が脳内で反響し、気分が悪くなる。

「もういい。俺はもう寝るから」

篤史は逃げるようにその場から去る。

千穂は何か責めるようなことを言っている。しかし篤史にはそれが聞き取れなかった。

こんな現象がここ最近、頻発している。頭に血が足りてないような感覚がたまに襲ってくるのだ。病院に行くことも考えたが、篤史にそんな時間はないこともまた事実だった。

●家庭崩壊寸前……篤史は仕事と家庭のバランスをとることができるのか? 後編【ブラック企業で家庭崩壊寸前…妻が「ヒモになる」宣言を受け入れた理由】にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。


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