<前編のあらすじ>
篤史(39歳)は学生時代の夢だった広告代理店に勤めることができた。だがそこは憧れていた世界とは違って残業ばかりの「ブラック企業」だった……。ホワイト企業に勤める妻との収入格差は開くばかり、結果的に家庭を顧みない篤史は、妻にも娘にもあきれられてしまっていた。
気づけば病室に…
あの日から家庭に篤史の居場所はなくなった。
篤史に残されたのは仕事だけ。しかし体がどんどんキツくなっていく。それでも篤史は必死に仕事をこなしていた。
しかしとうとう、限界を迎えてしまった。
目を開けると知らない景色が飛び込んできた。鼻からキツい消毒液の匂い。首を動かすと白い壁に囲まれている。ベッドで寝ていることだけはよく分かった。
しかし篤史は今朝、職場に出勤したことを記憶している。すると扉の開く音がして、千穂が視界に入ってきた。
「目、覚めたの?」
千穂は安堵したように笑った。久しぶりに見る笑顔だった。
「……何があったんだ? 俺、仕事をしていたはずじゃ…」
「倒れたの、会社でね」
「そうか……」
驚きは思ったほどなかった。いつかこうなるとは予期していたからだ。
「バカね。どれだけ無理してたのよ」
「え……」
「あなたの部下がね、私に教えてくれたわ。あなたがどれだけ仕事を押しつけられていたか」
「でも、俺がやらないと……」
「異常よ。あなたが真面目で断れない性格だからそれを上司が利用していたの。少なくともあなたの上司は毎日、定時に帰って、休日もしっかり取っていたんだから」
千穂の言葉を聞き、それが真実なのか考えた。しかし何も思い浮かばない。ここ最近、自分がどんな仕事をしていたのか覚えていなかった。
「気付いてなかったようね……」
千穂はため息をついた。
「あなたが広告代理店の仕事をやっていることに誇りを持っているのは知っていたわ。だってそんなの昔からあなたの作ったCMを何度も見せられていたんだから」
千穂の言葉に昔の記憶がよみがえる。まだ穂波が生まれる前、篤史は自分の作った作品を何度も千穂に見せていた。
「……懐かしいな」
いつか子供が生まれたら、自分の作品を見せてやろうと意気込んでいたこともあった。あのときの気持ちはとっくに忘れていた。
「あの日はごめんなさい」
千穂が小さく頭を下げた。
「私が稼ぎのことを言っちゃったから、あなたを怒らせちゃって。穂波との約束を破られて頭に来ちゃったの」
「……いや、俺が悪いんだ」
「多分、あのことがあったから私たちにも相談ができずに追い込まれたんだって思う。あの日は言葉が足らなかったわ。私はね、ただあなたに長生きをしてほしいだけなの」
千穂は涙をにじませながらそう訴えてきた。
長生き、そんなことを考えたことはなかった。
「穂波が成人するまではあと8年、そして結婚するのはもっと先になるでしょ。そして孫が生まれて、その孫と一緒に遊んだりしたいとか思わない?」
頭の中で千穂の言う景色を想像する。不思議と笑みがこぼれた。
「……楽しそうだな」
「そうでしょ。でも今みたいな生活をしていたら、絶対に無理よ。今日だって周りに同僚の人たちがいたから良かったけど、もし1人だったら……」
千穂は言葉を詰まらせる。
篤史自身はそこまでの危機感はなかった。千穂の話を聞いても、何も感情が浮かばない。ただもう少しだけ寝ていたいとしか思えなかった。
リビングでの何気ない時間
それから篤史は退院をし、余っていた有休を使い自宅療養をすることになる。そこでも上司がかなり渋い反応をしたことを話すと、千穂はとても怒っていた。
とはいえ、しばらくは仕事をする必要がなくなる。そのことでかなり心の余裕を持つことができるようになった。
とはいえ、このままで良いわけがない。篤史は職場に復帰するか、転職をするかその二択に悩まされることになる。そんな悩みを抱えながらも篤史は落ち着いた日々を過ごす。
あるとき、リビングでテレビを見ていると玄関が開き、穂波が学校から帰ってきた。
「……ただいま」
「おう、おかえり」
穂波はそのまま、自分の部屋に向かう。この日の会話はこれだけだった。それからも当たり前のようにただいまとおかえりと言い合うだけの日が続く。
そして次第に穂波は学校から帰っても部屋に直行せずにリビングでテレビを一緒に見るようになった。
会話はない。篤史としては話をしたいという気持ちはあった。しかし何を言っていいのか分からなかったのだ。まずは謝罪したい、そう思っていた。
それでも何も言葉にすることができず、ただただソファに座っていることしかできなかった。
ただ毎日その時間を過ごす中で、穂波が何に笑い、何を感じ、どう成長をしてきたのかが少しずつではあるが分かるようになる。そうやってぎこちなくもゆったりとした時を篤史は穂波と刻んでいった。
しかし職場復帰の時期が迫ってきたとき、篤史はふと、この生活を失いたくないと思った。学校から帰ってきた穂波とのリビングで過ごす何気ない時間に至福の幸せを篤史は感じていたのだ。
篤史の決断
その日の夜、篤史はそのことを千穂に伝える。
「……穂波との時間を大切にしたい。だから、会社には復帰しない」
そして千穂に頭を下げる。
「だからといって何かやりたいことがあるわけでもない。だからしばらくは仕事が見つけられないと思う! ごめん! でも絶対に転職先を見つけるから!」
言ってることはメチャクチャだ。今から千穂にヒモになると言っているのだから。
しかしこれが篤史の今の本音だった。
そして恐る恐る篤史が顔を上げると、千穂はうれしそうにほほ笑んでいた。
「良かった」
「え……?」
「もし会社に戻るなんて言ったら離婚しようかって思ってたくらいだから」
「そ、そうだったのか?」
「うん、だってあんな会社で働かれたら、私たちにも迷惑がかかるから」
篤史は何も言えなかった。相当迷惑をかけていたのだと初めて気付いた。
「でも、今からやりたいことを見つけるのは難しいでしょ? それに再就職だってその年齢では厳しいわ」
「ああ、そうだな……」
「でも、あなたには武器があるじゃない」
「武器? そんなのあるっけ?」
「あなたはどれだけ忙しくても、動画編集で手を抜くことはしなかったでしょ? それって動画作りが好きだからよ」
千穂に言われても、篤史はピンとこなかった。しかし篤史が手がけた作品数とその時間と労力は一般的に見て異常な数だと千穂は話す。
「動画編集なら今時、家でもできるから。在宅ワークも可能よ」
「そんなことができるのか……」
「クラウドソーシングサイトであなたの実績とかポートフォリオを紹介すれば、仕事はいっぱい来ると思うから。これで取り合えずフリーランスでやってみたら」
千穂は篤史のためにサイトまで探してくれていた。
「……ありがとう。俺のためにこんな」
「いいのよ。夫婦じゃない」
篤史は照れくさくなってうなずきながら顔を隠した。しかし胸の中には温かいものが広がっていく感覚が確かにあった。
その後、篤史はサイトに登録。すると千穂の言うとおり、すぐに仕事が来るようになる。編集の仕事はやはり楽しく、さらに家でもやれることで家族の時間が失われることもなかった。
桜の木の下で
あの日から半年がたつ。
きれいな桜並木の下を篤史は千穂と穂波の3人で並んで歩いていた。
穂波は大きめのセーラー服を着ている。
今日は穂波の入学式。夫婦で参加した篤史たちは3人そろって帰宅をしていた。
笑顔の穂波とそれをほほ笑ましそうに見る千穂。
篤史はこの景色を壊さないように頑張ろうと心に誓った。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。