科学の進歩、胸のざわめき

 〈人間の不安は科学の発展から来る〉と、夏目漱石の「行人(こうじん)」の作中人物は述べている。〈進んで止(とど)まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない〉と▲徒歩から俥(くるま)(人力車)、俥から馬車、馬車から汽車…と発展に休みはない、と文は続く。交通手段に限らず、あらゆる分野で科学の歩みに休止はない。果てしない進歩は希望の源泉だが、時に不安の種をまく▲細胞や臓器を人に移植できるように遺伝子を改変したブタ3頭が生まれた、と先日の紙面にある。人に移植するために開発されたブタが日本で誕生したのは初めてという▲日本は、臓器を提供する人の割合が世界でもとりわけ低い。こうした「異種移植」は、提供者不足という高い壁を超える希望の一歩とされている▲朗報に違いないが、安全が保たれるのか不安もあるという。いや、それよりも前に「種(しゅ)の壁を超えた移植」「遺伝子の改変」というひと言ひと言にいくらか胸がざわつき、「生命の操作」という不穏な言葉をつい思い浮かべる▲希望の光のまばゆさに比べれば、胸のざわつきなどは取りに足らない些事(さじ)かどうか。〈(科学に)どこまでつれていかれるかわからない〉と小説の人物はおびえた。どこまで歩き、どこで立ち止まるか。境界線は今も見当たらない。(徹)

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