名曲「青い山脈」日光の山々説浮上 「茂木からの眺め」提唱 茂木学の中村さん、作詞西条八十との縁考察

城山公園から望む青いシルエットの日光方面の山々=1月、茂木町小井戸

 戦後復興期の名曲「青い山脈」を作詞した西条八十(さいじょうやそ)(1892~1970年)が、栃木県茂木町小井戸の城山公園から見た日光方面の山並みを念頭に歌詞を書いたのではとする説が浮上している。提唱者は同町茂木、茂木学研究会会員中村強(なかむらつよし)さん(70)。西条は戦時中、娘の嫁ぎ先の両親を町内に疎開させ、自らの蔵書も近くの民家に預けるなど、町とゆかりが深いことが知られている。

 「若くあかるい歌声に 雪崩は消える 花も咲く」で始まる「青い山脈」は、49年公開の同名映画の主題歌。西条は48年10月に書き上げた歌詞を作曲家服部良一(はっとりりょういち)に託し、歌は映画公開前に発表され大ヒットした。

 曲は、服部が出身地の大阪市に近い神戸市の六甲山を車窓から見て曲想を得たと明かしている。一方、大阪市や青森県弘前市には「青い山脈」の歌碑があるものの、それぞれ服部や映画の原作小説を著した石坂洋次郎(いしざかようじろう)と現地との縁を示すもので、中村さんによると、東京人の西条がモデルとした「山脈」は定かでなかった。

 西条は44~47年、茨城県下館市(現・筑西市)に疎開。45年には長女嫩子(ふたばこ)の嫁ぎ先の三井家の両親を茂木町小井戸の荒橿(あらかし)神社社務所に疎開させ、よく通って面倒を見たという。留学先のフランスから持ち帰った蔵書も同神社近くの小口新一(こぐちしんいち)さん=52年に79歳で他界=方の石蔵に預けた。

 社務所、小口家とも城山公園まで数百メートルと近く、遊歩道をたどり公園最上部の本丸北西の土塁に立つと、八溝の山々越しに遠く青く連なる日光から那須の山々を望める。

 詞は「古い上衣(うわぎ)」「さみしい夢」など戦中を暗示する言葉と「雪割桜」「青い山脈」など戦後の希望を象徴する言葉を対比させている。中村さんは「戦中から戦後に移る時代感覚を持って、冬の白い山脈から『雪崩が消えて』青い山脈に変化する姿を眺めていたとすれば、時期は限られ、場所の特定も可能」とみる。その時期、場所ともに茂木につながるとの見立てだ。

 終戦後に中国から引き揚げた嫩子や孫を連れ、社務所や小口家付近を散策する西条を目撃した証言も掘り起こした中村さん。「西条は茂木を懐かしんで歌詞を書いたのでは。茂木が、その西条を迎えた町だという記憶を伝えたい」と話す。

 3月3日午後1時半から、茂木町のふみの森もてぎで「西条八十の見た青い山脈」と題し中村さんがこの説を披露する。参加無料。申し込みを受け付けている。(問)ふみの森もてぎ0285.64.1023。

1946年に県立茂木農学校(現茂木高)で講演した際、記念写真に収まる西条(中央)=茂木町提供
中村強さん

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