店も家も失った中華料理店の店主に再起を決意させたのは、焼け跡から見つかった寸胴(ずんどう)鍋だった。能登半島地震直後の大規模火災で大半が焼失した輪島市河井町の朝市通りにのれんを出してきた「香華園(こうかえん)」。開店から半世紀、地元に愛されてきた町中華の3代目板谷吉生(よしお)さん(48)は失意のどん底に沈んでいたが、猛火に耐えた鍋を探し出すと背中を押された気がした。「いつか必ず朝市と一緒に復活したい」。その鍋で再び麺をゆで、スープを作る日を思い描き、一歩を踏み出した。(前輪島総局長・中出一嗣)
香華園は、朝市通りの中ほど、永井豪記念館の前にあった。輪島勤務時代に何度も通ったなじみの店だ。板谷さんと一緒に店があった場所を訪れると、2階建ての鉄筋の骨組みは残っていたが、店の中だった場所は黒焦げのがれきやガラスが散乱。食べに行ったら定位置にしていたカウンターが辛うじて形をとどめているだけだった。
●小松から通い続け
1月1日、板谷さんは、同市門前町の親戚宅で被災。朝市通りが火に包まれる映像がテレビで流れたが、どうすることもできなかった。店にたどり着いたのは4日朝。惨状に立ち尽くしたという。
「何もしてやれず、ごめんな」。気が付くと、焼け跡で調理器具や食器を集めていた板谷さん。港に近い、輪島崎町にあった自宅も住めなくなったため、小松市へ避難したが、店に通い続けた。
がれきの山の中から、ギョーザ専用の鉄鍋など、使えそうな器具を見つけるたびに、少しずつ前向きな気持ちに。ただ、1階の厨(ちゅう)房(ぼう)にあった三つの寸胴鍋と、チャーシュー仕込み用の鍋は、何度探してもなかった。大火で溶けてしまったとみられる。
「やっぱり鍋はないか」と半ば諦めかけていた2月8日、2階の倉庫に保管していた鍋を見つけた。すすで汚れてはいたが、「これは、店やらんだめやな」と再起を決意した瞬間だった。
店は板谷さんの伯父が創業した。2代目の父和行さん(75)から仕込まれた、自家製麺のラーメンやチャーハンが人気だった。
定食メニューも豊富で、仕事帰りの朝市のおばちゃんや、漁師らでいつもにぎわっていた。
2020年8月、輪島に着任し、家族で引っ越してきた日の晩飯に出前を頼んだのが香華園だった。朝市が営業中は、店の前にオレンジのテントが並び、とりわけ元気な名物おばちゃんがいた。いつも「またラーメン食べに来たんか」と大きな声を掛けられてから、のれんをくぐった。そんな日常がまた見たい。
「プレハブか、店を借りてやれるのか分からないが、きっと朝市に戻ってくる」。救い出した鍋を大切そうに磨き上げる板谷さんの言葉は力強かった。