「バルサにもマンUにも認めてもらえなかった」マルチネッリの才能は、いかにして育まれたのか。体格のハンデを乗り越えたアーセナルの主軸ウインガーのルーツ【ブラジル発】

例えばレアル・マドリーのヴィニシウスやロドリゴのように、鳴り物入りでブラジルから渡ってきたわけではない。いくつもの挫折を乗り越え、アーセナル入団を勝ち取ったガブリエウ・マルチネッリ。いまや崩しの切り札として君臨するウインガーの、知られざるルーツを辿る。

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ガブリエウ・マルチネッリは2001年6月18日、サンパウロ近郊の商工業都市グアルーリョスで生まれた。祖父がイタリア南部からの移住者であり、そのためブラジルとイタリアの国籍を持っている。

サッカーの英才教育を施したのは父親のジョアンだった。プロを目指したが志半ばでその道を諦めた父親は、自身の夢を息子に託したのだった。

父親の熱心な指導の甲斐もあり、サンパウロ市内の複数のビッグクラブでトライアウトを受けた結果、10年、9歳で名門コリンチャンスのフットサルチームに入団。マルチネッリのキャリアは、こうしてスタートした。

チーム練習が終わってからも、父親は自宅付近の空き地で息子に特訓を施した。「最初は左足がまったく使えなかったから、左足のキックを徹底的に練習させられた」と振り返るのは、右利きの本人だ。

父親はアカデミーのすべての試合に同行し、「あの場面はこうプレーすべきだった」などと細かく指摘した。「両親のサポートにはとても感謝しているけど、父だけじゃなく時には母からも『あそこはもっと強いシュートを打つべきだったんじゃないの?』なんて説教されて大変だったよ」とマルチネッリは苦笑する。

コリンチャンスの練習場では、大きな刺激も受けた。09年から在籍していた元ブラジル代表のスター、ロナウドのトレーニング姿を目の当たりにして感激したという。「彼のようにヨーロッパのビッグクラブで活躍して、セレソンの一員としてワールドカップでプレーしたいと、そう強く思ったんだ。あれから本気でプロを目指すようになった」と回想する。

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12年からはフットサルだけでなくサッカーチームを掛け持ちし、さらに練習に打ち込んだ。小学校のフットサルチームでも活躍していたマルチネッリは、11歳の時にグアルーリョス市の小学校対抗フットサル大会に出場。優勝を果たしている。
そのチームを率いた指導者の言葉を紹介しよう。

「チームで一番小柄だったが、スピードとテクニックがずば抜けていた」

「戦術はガブリエウ。ボールを渡しさえすれば、彼が何とかしてくれた」

「決勝でも仲間のゴレイロ(キーパー)からパスを受けると、相手のフィールドプレーヤー全員を抜き去り、最後は飛び出してきたゴレイロもかわしてゴール前にパス。それを仲間が押し込んだ。このゴールが、優勝に導く決勝点だった」

監督の称賛は続く。

「傑出した才能の持ち主だったが、チームの勝利を何よりも優先するプレーヤーで、エゴイストではまったくなかった。だからチームメイトからも信頼されていた」

U-11、U-13、U-15でプレーしたコリンチャンスでは、フットサルも含めると200ゴール以上をマーク。直接指導していたコーチは、「どのカテゴリーでも攻撃の中心だった」と振り返る。

最初の大きな転機は15年、14歳の時だった。父親の仕事の関係で、一家はサンパウロから北西に約100km離れた小都市イトゥへと引っ越すことになったのだ。コリンチャンスの練習場からは遠く、通うのは不可能で、名門クラブを退団せざるをえなくなる。マルチネッリは数日間泣き続けた。

「息子には申し訳なかったが、一家の生活を支えるためには、仕方がなかったんだ。苦渋の決断だった」

と父親は述懐する。

後悔を口にしたのは、当時のコリンチャンス関係者だ。

「優れた選手であるのはわかっていたから、サンパウロでの仕事を父親に斡旋して、チームに残す選択肢もあった。しかし、彼はとても小柄で、これほどのプレーヤーになるとは予測できず、退団させてしまった」

イトゥには、1947年に創設されたイトゥアーノという中堅クラブがある(現在はブラジル全国リーグ2部、サンパウロ州リーグ1部に所属)。90年代にサンパウロやイングランドのミドルスブラ、スペインのアトレティコ・マドリー、ブラジル代表などで活躍したMFジュニーニョ・パウリスタの出身クラブだ。

気持ちを切り替えたマルチネッリは、そのイトゥアーノの入団テストを受けて合格。U -15チームで新たなキャリアをスタートさせた。

当時、マンチェスター・ユナイテッドと提携していたイトゥアーノは、野心ある若者にとって魅力的なクラブだった。というのも、アカデミーに所属する優秀な選手は、チームの推薦を得られればマンチェスター・Uの練習に参加し、トライアウトを受けることができたからだ。マルチネッリは16年から17年にかけて、4度に渡りマンチェスター・UのU -18チームの練習に参加した。

「英語がまったく話せなかったけど、練習試合ではいつも地元の選手以上のプレーができた。絶対にプロ契約を勝ち取る意気込みだった」

当時の気持ちをマルチネッリはそう振り返るが、結果的にマンチェスター・Uとの契約は勝ち取れなかった。その後、バルセロナから興味を示され、2週間ほどラ・マシア(バルセロナの育成組織の選手寮)に寝泊まりして練習に参加したものの、ここでも正式契約には至らなかった。

「技術的にはとても優れていたが、小柄で華奢だった。高いフィジカル能力が求められる欧州トップリーグで通用するのかどうか。その点を不安視されたのだろう」

イトゥアーノでマルチネッリを指導したコーチの見解だ。いわば挫折を味わったマルチネッリは、その時の思いをこう告白している。

「ユナイテッドにもバルセロナにも認めてもらえず、大きなショックを受けた。自信も失いかけた。でも、イトゥアーノのコーチやチームメイト、そして家族から励まされて、何とか乗り越えることができた」

イトゥアーノと念願のプロ契約を結んだのは17年11月、16歳5か月の時だった。18年3月にはサンパウロ州リーグでプロデビューを果たし、同年9月に若手の登竜門であるコパ・サンパウロ(U-20の大会)で初ゴールを記録。この18年シーズンはコパ・サンパウロも含め20試合に出場して計4ゴールを挙げた。

ただ、当時はまだ途中出場が多く、アンダー世代のブラジル代表とも無縁だった。地元メディアから「イタリア国籍を持っているそうだが、将来、イタリア代表でプレーすることも視野に入れているのか」と訊かれたマルチネッリは、「夢はもちろんブラジル代表の一員としてワールドカップに出場することだけど、もしイタリア代表から招集されたら検討する」と答えている。

迎えた19年シーズン、マルチネッリは大きな飛躍を遂げる。レギュラーとして臨んだサンパウロ州リーグでチーム最多の6ゴールを記録しただけでなく、大会の最優秀若手選手とベスト11に選出されたのだ。

この活躍に素早く反応したのが、アーセナルだった。そして19年7月、移籍金710万ユーロ(約11億円)の4年契約でイングランドの名門にステップアップを果たしたのである。

最初の2シーズンは左膝の怪我もあり出番は限定的だったが、才能の片鱗を随所に披露。そこから著しい成長を遂げて一気にレギュラーの地位まで上り詰めたマルチネッリは、東京五輪で金メダルを掴み、22年ワールドカップに出場するなどブラジル代表でも重要な戦力となっている。

いくつかの挫折を乗り越え、名門アーセナルの未来を担ういまや中軸の一人となり、特大のスケール感を示しながら進化を続ける22歳に、小柄で華奢だった頃の面影はもはやない。

文●沢田啓明

【著者プロフィール】
1986年にブラジル・サンパウロへ移り住み、以後、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトなどに寄稿しており、著書に『マラカナンの悲劇』、『情熱のブラジルサッカー』などがある。1955年、山口県出身。

※『ワールドサッカーダイジェスト』2023年11月16日号より転載

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