夫に病気で先立たれ独居老人に…70代女性の生活に変化をもたらした“来訪者”とは

線香の煙が薄く漂い、鉢で小さく鳴らしたりんの音色が六畳の和室を満たしていく。みわは肉がそげ、皺(しわ)だらけになった手を静かに合わせる。重ねた親指に、うなだれるように額を押し付ける。煙の向こうで笑っているだけの夫の顔を、見ることはできなかった。

夫に先立たれ、独居老人になってしまった

薄く引き伸ばされたりんの音色が冷たい空気に溶けて消え、燃え尽きた線香が3分の1くらいのところでぽきりと折れたころ、みわはようやく顔を上げた。

振り返れば誰もいない部屋が広がっている。

2年前に夫を病気で亡くしてから、隙間だらけの部屋が寒々しかった。東京に住んでいる2人の子供たちが孫を連れて帰ってくるのは正月と盆のどちらかだけだから、みわは1年のほとんどをこの家でたったひとり過ごしていた。

重い腰を上げて立ち上がる。からだを支える2本の足は思うように動かない。年のせいだろう。膝を痛めてからサポーターが欠かせなくなり、たとえサポーターをしていても不安の残る身体で出掛けることは、病院に行く以外にめったになくなった。

みわは煎茶を入れて、庭につながる窓を開けて腰を下ろす。2年前までは毎日手入れを欠かさなかった庭は野放図に茂った雑草で埋め尽くされている。老眼で目は見えづらくとも、あたりを飛び回るハエの羽音はまだはっきりしている耳に聞こえていた。

かさついた唇を熱いお茶で湿らせる。夏が終わって細く頼りなくなった太陽の光が、東の空から静かに降り注いでいる。

吐き出した小さな息は、空気に溶けることなくずっとあたりを漂っていた。

気まぐれな来訪者

夫の仏壇に線香をあげ、煎茶を入れて窓際に腰かける。日が沈むまで、みわはただ時間だけを消費する。みわの今日は昨日と一昨日と同じで、明日とあさってとも同じだ。よく残りわずかな人生を大切にというけれど、みわの過ごす時間は何もなくただ長い。静かに引き延ばされた時間は、苦痛と孤独以外の意味を持たなかった。

そんな毎日がこれから死ぬまでずっと続いていくんだと思っていた。

けれどこの日は少しだけ違った。

にゃぁお、とかすかに聞こえた声のほうを見ると、もう枯れてしまったヘチマのつるの先で1匹の黒猫が大きなあくびをしていた。

野良猫だろうか。首輪はつけておらず、痩せていて、毛並みはぼさぼさだった。孤独にやつれた様子が、自分と少し重なった。

「おいで」

みわは黒猫に声を掛けた。けれど黒猫はちらりとみわを見ると立ち上がり、かぎ爪のようなしっぽをゆらゆらと振りながら歩いていってしまった。

けれど次の日も、その次の日も、黒猫は庭へやってきて、時間をつぶすみわに気まぐれに付き合った。けれど毎日人の家の庭に入ってくるくせに警戒心が強いのか、黒猫は一向にみわに近づいてはこなかった。鳴き声をまねしても、庭に生えていたねこじゃらしをつまんでみても、手をたたいても振っても、黒猫はなびいてくれなかった。

だからみわは一念発起して近所のスーパーへ足を延ばし、猫用の缶詰を買いに行った。

食事は裏切らない。普段は朴訥(ぼくとつ)としていた夫も、食事の時間だけは朗らかに笑う人だった。

いつもより少し遅くなった時間に窓際に腰かける。いつもと同じ場所で黒猫が横になっている。違うのは久しぶりの外出でからだの末端にたまった気だるさと疲労感と達成感があること、そしてみわの手に缶詰が握られていることだ。

みわは缶詰を開けて地面に置いた。みゃぁお、と猫の鳴きまねをした。すると黒猫は顔を上げ、缶詰をじっと見た。重い腰を上げた黒猫はみわに近づき、足元に置いてある缶詰の中身を食べ始める。

「なんだい、お前おなかがすいてたんだねぇ。なかなか気づかなくてごめんねぇ」

みわは夢中で食事をしている黒猫にゆっくりと手を伸ばして首のあたりをそっとなでる。思った通り毛はごわついていたけれど、温かかった。それはみわが久しぶりに触れる他者のぬくもりだった。黒猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。みわも思わず笑みをこぼす。

缶詰を食べ終えると、黒猫は立ち上がった。みわのもとを去る足取りは記憶にあるよりもずっと軽快で、隣の家との境界にあるブロック塀へと軽やかに上ってみせた。

「明日も来ておくれよ。重かったけど、いっぱい買ってきたんだからね」

黒猫はしっぽを振って、塀の向こうへ飛び降りた。

庭から怪しい物音が…

ところが次の日、みわが窓を開けたとき黒猫の姿はなかった。

それでもみわは独り、窓際へと腰を下ろす。湯飲みの代わりに手のなかにある缶詰は冷たかった。顔に当たる弱い日差しにだけ、かすかにぬくもりが感じられた。みわは寂しさを紛らわすように笑みを吐き出す。

最近はずっと黒猫をかまっていたせいだろう。黒猫と出会う前よりも、ずっと時間の流れが遅く粘っこく感じられる。そして久しぶりにただ漫然と過ごす停滞した時間の流れは、みわの意識をいつの間にかまどろみのなかに引きずり込んでいく。

気がつけば太陽はすでに西に傾き始めていた。まだ夜が顔を出すには少し早い時間だったけれど、ずいぶんと長いあいだ昼寝をしてしまっていたらしい。

缶詰は眠っているあいだに手から離れて地面を転がっていた。みわは立ち上がってそれを拾う。膝を悪くしていると、地面に落ちたものを拾うのですら一苦労だった。

そのときだった。

うっそうと茂る庭の奥のほうで草をかき分ける音がした。

「……猫ちゃんかい?」

みわは手入れ不足で暗くなっている庭の奥へと呼びかけた。返事はなかった。続けて動く気配もなかった。泥棒だろうか。みわは昔、庭になっているビワを盗まれたことを思い出した。ビワの木はもう枯れてしまったけれど、一度そう思ってしまうとその考えは頭から離れなくなった。

みわは缶詰を握り締めた。凝視した庭の奥はぼやけていて暗い。

がさがさと、もう一度大きな音が鳴った。

●怪しい物音の正体は、一人暮らしの高齢者を狙う強盗なのか……? 後編一人暮らしの高齢者宅から物音が…孤独な老婦人を救った“侵入者”の正体】にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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