「…おやじ、死ぬのか?」24年前に決別した父は末期がんに…実家へ駆けつけた男が見た“信じられない”光景

<前編のあらすじ>

春樹(42歳)は24年前に父親とけんかをして家出同然に実家を出てきた。今は紳士服店の店長をつとめていて、帰りに後輩とビール一缶だけちょい飲みをするのが習慣になっていた。元旦の朝、久しぶりに兄からかかってきた電話の内容は「親父が末期がんで半年もたないから一度帰ってこい」というものだった……。

24年ぶりの帰宅

それからも何度か続いた兄・芳樹からの連絡に根負けした春樹は、初売りがひと段落する成人の日あたりを待ってから、益田たちにシフトを調整してもらって実家へ帰ることにした。

新幹線の外の景色はあっという間に流れていく。窓からのぞく田畑が雪をかぶり始めると、緊張感が増していく。しかし時間は春樹の覚悟を待ってはくれず、新幹線と鈍行列車を2本乗り継ぐと実家の最寄り駅についてしまった。自宅のある都内からは5時間かかるという乗り換えアプリの表示は、思っていたよりもはるかにあっという間だった。

「よう、遅かったな」

軽トラックで待っていた芳樹に出迎えられ、春樹は助手席へと乗り込む。兄弟のあいだに会話はなかった。凍り付いた路面を砕いていくタイヤの音だけが、車内にまで響いていた。

15分も車を走らせればあっという間に実家が見えてくる。あたりの景色は20年前と何も変わらない。春樹が嫌った停滞した町並みは、冷たくのしかかる曇天に今にも押しつぶされてしまいそうだ。

庭先に車が止められ、春樹たちは車を降りる。緊張すんなよ、と芳樹に肩をたたかれ、春樹は頰が引きつるのが自分でもよく分かった。

「ただいまー。連れてきたよ」

玄関によどみなく歩いていった芳樹がためらいなく戸を開けてしまう。春樹には心構えをする余裕さえも与えられない。芳樹の声に反応して母が玄関にやってくる。料理をしていたのだろう。つけているエプロンは20年前と変わることなく、だけどひどく色あせていた。母は敷居を跨(また)げずに立ち尽くしている春樹へと笑顔を向ける。

「おかえり。寒いでしょ。早く中入んなさい」

家族の食卓

炊き込みご飯、唐揚げ、たいの煮つけ、肉じゃが、千切りキャベツにごま油をかけただけのサラダ――。

普段の食事を外食かコンビニかアルコールで済ませる春樹からしてみれば豪勢すぎる料理が次から次へと食卓に並ぶ。

「春樹も40だもんな。随分老けたもんだよ」

「アニキだってもう立派なおやじじゃねえか」

「あら、でも写真よりはすてきよ?」

「は? 写真?」

「母さん、お前の店のSNSチェックしてるんだよ。たまに店員のコーディネート写真とか上がってんだろ、あれだよ」

「はぁっ⁉」

「誠子さんに登録を手伝ってもらったのよ」

台所から盆に乗せたみそ汁を運んできた母は得意げな表情だった。

ちなみに誠子さんというのは芳樹の嫁のことだ。普段はこの家に一緒に住んでいるが、今日は家族4人水入らずで楽しんで、と2人の娘を連れて実家へ帰っているらしい。

「今度から別のスタッフに頼むことにするよ」

「あら、残念」

食卓の温度にほだされたのか、そんな気安い会話が思わずこぼれていく。

だがそんなものはまやかしだと春樹は知っている。母が芳樹に「お父さん呼んできて」と告げた瞬間、春樹の全身は忘れかけていた緊張感を思い出す。

間もなく居間へやってきた父は春樹を一見するや、何も言わず自らの定位置へ腰を下ろした。春樹の手のひらは暑くもないのに汗ばんでいた。車いすを使っていたり、点滴を手放せなかったり、もっと見るからに重病人らしい様子かと思っていたが、24年という時間相応に年を取ったこと以外の変化は感じられなかった。

春樹はどういうことだととがめる視線を芳樹に送る。しかし芳樹は春樹に向けて神妙にうなづいたから、たぶん何も伝わってはいなかった。変わらず元気そうな父の姿に安心しているのか、それとも落胆と気まずさを抱いているのか、春樹にはよく分からなかった。

「さ、食べようぜ」

芳樹が音頭を取り、24年ぶりに家族全員が食卓につく。母が父にビールを注ぎ、芳樹が唐揚げを頰張る。小学5年にもなって春樹がおねしょをした話や、芳樹が中学のときに22人の女子に振られた不名誉な学校記録がいまだに破られていない話、2人の娘がパパと結婚したいと言っている話などを楽しそうに話している。母はそれに適度な相づちを打ちながら笑い、父は表情筋だけ先に死んだみたいな顔でたいの身をほじくり、水でも飲むみたいな勢いで酒を呷(あお)っている。春樹は炊き込みご飯のシイタケを避けながら、冷めた目で食卓を傍観し続けた。

まるで何もかもなかったことになっていた。春樹を殴りつけた父の拳も、春樹が父に向けて吐いた黒い言葉も、家の壁に開けられたげんこつの穴も、怒鳴り合う父子の横で流された母の涙も、父がガンで死ぬという話も、すべてがなかったことになっていた。

居心地が悪かった。茶番だと思った。

春樹は耐えられなくなって立ち上がる。母と芳樹が春樹を見上げる。

「どうしたんだよ」

「ガンだかなんだか知らねえけど、やっぱ俺はこの町もこの家も耐えらんねえわ」

春樹は二階の自室へと向かう。呼び止める母たちの声には応えない。電気もつけないまま、24年前と変わらないベッドの上に横になる。

子供じみていることは分かっていた。だが過去をなかったことにして笑顔を貼り付けるなんてこと、春樹にはどうしたってできなかった。

うつぶせに寝がえりを打ち、枕に顔を押し付ける。記憶よりもずっと爽やかな、真新しい柔軟剤の匂いがした。

父との時間

夕食をほとんど食べずに部屋へ逃げてきてしまったせいで、春樹は眠れなかった。

軽食を食べようにも車を走らせないことにはコンビニにさえ行けない。春樹は天井を眺めるのにもいい加減飽きて、部屋を出る。フローリングの床はひどく冷たい。なるべく足音を立てないよう一階へ降りる。居間の明かりがついていた。

春樹は廊下の影から居間をのぞく。最悪なことに父がまだ起きていて、独りで晩酌をしているようだった。つまみ食いは諦めるしかなさそうだった。春樹は部屋へ戻ろうと身体の向きを変える。その瞬間だった。

「春樹か」

冷たい空気にしみ込んだ低い声に、心臓をつかまれたかと思った。

春樹は観念して振り返る。こちらを見る父の顔はほんのりと赤らんでいて、もともとのいかめしい顔つきと相まっててんぐのお面のようだった。

「なんだよ、なんか文句でもあんのか」

「少し付き合え」

意外だった。あまりに意外すぎて、その場で少し固まった。すぐにわれに返ったつもりだったが、素直に台所へ向かって缶ビールを用意してしまうあたり、まだ動揺が抜けていなかった。

「病気なんだろ。酒飲んで平気なのかよ」

動揺と緊張を紛らわすように言って、プルタブを引く。正方形の食卓の、父の左隣に腰を下ろし、父が手に持っていたグラスと勝手に乾杯をする。

「治療しないからな。関係ない」

春樹は父の姿をまじまじと眺める。つい数時間前、無責任に変わっていないと思った父は随分と痩せて弱っているのが見て取れた。

沈黙を濁すように、春樹はビールに口をつける。雪が降る外は時間が止まったように静かで、ぼんやりと明かりのともる居間には2つの浅い呼吸が足並みそろわずに繰り返されている。

「仕事はどうだ?」

尋ねる父に、別にと言いかけて春樹は言葉を飲み込む。

「ちょうどセールが終わってひと段落したとこ」

「そうか。ちゃんと飯は食ってるのか」

「まあ、ちゃんとかは分かんねえけど、食ってるよ」

「そうか」

畳に吸い込まれるように会話が途切れる。春樹はビールを胃の中へ流し込み、父もまたビールをグラスに注いでいた。やけに苦く感じるのは、ビールの味のせいだけではないのだろう。

「……おやじ、死ぬのか」

「そりゃあな。あと半年だそうだ」

「そうか」

ため息を吐くように春樹は言って、静かに父が死ぬという事実をかみしめる。長い時間会っていなかったせいで、今更いなくなると言われても実感が湧かなかった。取り返しがつかないほどに、長すぎる空白だった。

「悪かったな」

「何が?」

春樹は思わず父の顔を見て聞き返したが、父は黙っていた。言葉はなかったが、何を言わんとしているのか理解できるような気がした。

「お前の家はここだ。どこへ住んでいても、変わらない。だからいつでも帰ってこい。もう半年もすれば、少しは帰ってきやすくなるだろう」

「ああ、そうかもな。……ありがとう」

父は勢いよくグラスを飲み干し、ぎこちない動きで立ち上がる。春樹は父の身体を支えようと腰を浮かしたが、父は手のひらでそれを遮った。

「俺は寝る。おやすみ」

「誘っておいて最後まで付き合わねえのかよ。勝手だな」

父は痩せた身体をさも重たそうに動かしながら居間から出て行く。春樹はいくらか小さくなった背中に向けて、おやすみとかすれた声を掛ける。

「ああ、おやすみ。それと、なんだ、その……おかえり」

父は振り返らずに寝室へと去っていった。春樹の缶を握る右手に、自然と力が込められた。

顔が、熱かった。視界がにじんだ。取り返しはつかないと分かっているのに、埋まらない空白があると知っているのに、身体の奥底から熱がこみ上げた。みっともないと思った。食いしばった歯はかみ合わず、閉じた唇はゆがんで開き、隙間から不規則に声とも息ともつかない音が漏れた。

父の葬儀

それから間もなく父は亡くなった。

春樹は再び地元を訪れた。葬儀にはたくさんの人が訪れた。最後まで涙は出なかった。父に焼香をあげる参列客の顔ぶれを眺めながら、春樹はおやじのくせに生意気だと心中で独り言(ご)ちた。

火葬を待つあいだ、春樹は息が詰まる親戚の集まりからフェードアウトして、外の喫煙所でたばこに火をつける。

ふいに空を見上げると、火葬場の煙突から白い煙がゆらゆらと上っていくのが目に入った。春樹はたばこを持つ手を掲げた。

「おやすみ、おやじ」

2本の煙は遠く離れながらも重なり合い、雲の切れ間から差し込む黄金色の春の日差しを受けていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。 マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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