「浪江に一番乗りで戻ってきました」 避難先の暮らしを少しでも快適に、「利他の心」で汗を流した【東日本大震災13年】

大規模災害では、自治体が体育館や公民館を避難所として開設する。一時的な滞在で済めばよいが、自宅が被災して住めなくなれば、当面の生活の場となる。仮設住宅の建設は、時間がかかる。その間、ホテルや旅館が「2次避難所」として提供される。2024年元日に起きた能登半島地震でも、多くの被災者が2次避難所を利用している。

東日本大震災では、津波や東京電力福島第一原発の事故で、突如ふるさとを追われ避難を強いられた人が大勢いた。避難先で、少しでも暮らしを豊かにしようと努力した人がいる。

避難者を班分けして役割分担

福島県浪江町の住民は、原発事故により住む土地を追われ、何年にもわたって翻弄された。町内で種苗店を営む佐藤秀三さんも、その一人だ。

11年3月11~12日にかけて、避難指示の対象地域は福島第一原発から半径3キロ圏内、10キロ圏内、20キロ圏内と目まぐるしく変わった。佐藤さん一家は、同じ町内だが自宅から遠く離れた津島地区へいったん避難。だが、その後さらに二本松市に移ることになる。「全く情報が入ってこず、携帯電話の電波状況も悪い。テレビの報道で、状況を把握するありさまでした」。

避難所に指定された体育館に入ったのが、3月15日夕。「着の身着のまま」だった。翌日、支援物資が配られると、奪い合いになった。「これではダメだ」と危機感を持った。

佐藤さんは地元行政区の区長を務めていた。商売柄、顔が広い。体育館には、知人が何人も避難してきていた。

「顔見知りを集めて『物資の取り合いを何とかしよう』と相談しました。全体を7つの班に分けて、役割分担を決めたのです」

1班は物資管理、2班はフロアの掃除、3・4班はトイレの掃除...という具合に、一定期間で交代する運用にした。これで、当初の混乱はなくなった。

4月5日には2次避難所が開設され、佐藤さんは二本松市内のホテルに移動。ここでも7班に分けて、避難者同士が自分の役割を持ち、協力して日常生活を支え合った。

7班に分けるとスムーズに運営できる

11年8月、佐藤さんは二本松市内に出来た仮設住宅に入居した。9月に自治会を結成すると、体育館やホテルでの避難生活で得たノウハウから、ここでも7班に分けた。スムーズな運営には、7班がベストだという経験則だ。

仮設の建物は、自宅のように快適とはいかなかった。すきま風が入る、段差があってお年寄りや足の不自由な人が困る......。郵便ポストが近くにないのも、住民には不便だった。暮らしの中の「困りごと」を佐藤さんが受け止め、関係各所に要望、改善につなげる毎日だった。まさに、24時間態勢――。

仮設住宅では、同じ町内でも出身地域が必ずしも同じではない。そこで、ボランティアに頼んであちこちにベンチを設置してもらった。住民同士が座って会話する機会を増やし、孤立を防ぐねらいだ。集会所は1日中開けっ放し。大学生が来ると子どもたちに勉強を教えてもらう。住民のために、佐藤さんは頭と体を動かし続けた。

長引く避難先での生活。佐藤さんは「最初の1、2年は浪江に帰れないかもしれない」と感じていた。だが次第に「いずれ、必ず戻る」に変わった。16年9月1日から26日間、住民が夜間も滞在できる特例宿泊が認められた。同年11月1日には、帰還に向けた準備のための「準備宿泊」がスタート。この時の登録名簿に最初に記載され、「自称ナンバーワンで、浪江に戻りました」。佐藤さんの自宅エリアの避難指示解除は、翌17年3月31日だった。

医者もいなければ、店も開いていなかった。放射線量への不安も、ゼロではない。それでも佐藤さんは真っ先に故郷へ帰った。理由は明確。「愛着です」。

近年、新しく浪江に移住してきた人もいる。この土地の伝統文化に興味があるとの声が多く聞こえてきた。現在、行政区区長会会長を務める佐藤さんは地元の人の協力を得て、町の歴史や文化を学ぶイベントを開いている。一方、新しい小中学校が出来ると、仲間を募って学校周辺に花を植えたり、大勢で運動会を盛り上げたりした。

24年元日に起きた能登半島地震で被災した人を、佐藤さんは思いやる。自身の経験から、お互いに励まし合い、他人のために汗を流す「利他の心」を大切にしているという。

「昨日よりも今日。今の浪江、明日の浪江が好きです」

その目は常に、未来を向いている。(J-CASTニュース 荻 仁)

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