震災と子どもたち(3月10日)

 元日に起きた能登半島地震は、甚大な被害をもたらした。現在も余震は続き、道路やライフラインの復旧は遅れ、困難な生活を強いられている多くの人たちがいる。日常を取りもどすには、まだまだ時間がかかるようだ。

 昨年の秋、震災遺構・浪江町立請戸小学校を訪ねた。津波襲来の爪痕が生々しく残る校舎を見学し、児童と教職員が避難するために越えた大平山から、校舎を見下ろした。校舎内には、かつての在校生が10年後に書いた作文が掲示されていた。

 震災後全国各地へ移り住んだ当時の1年生は高校3年生に、他の児童は大学生や社会人になっていた。「記憶が鮮明に残っているわけではない」と書くかつての1年生。「何度も辛[つら]い、悲しい、寂しい気持ちに押しつぶされそうになった」と振り返るもの。「障害を持ち、震災を経験した当事者として社会福祉士をめざす」「請戸の近くで震災を伝える仕事に就いている」―。紡がれた言葉から、10年の月日と未来に向かって歩む姿が浮かんでくる。

 作文は浪江町とNHKが募集したもので、後日放映された番組が残っている。震災当時6年生で、両親を亡くして神奈川県内の祖父母の元で育ったNさんと、進学した中学校で知り合った友人が映っていた。友人は毎年3月になると、Nさんにメッセージを送り、一緒に過ごしてきたという。「分かってあげられないけど、ちょっとでもさみしさが埋まればいいかなという思いがあって」と話すのを見て、「これからも、Nさんのそばにいてくださいね」と伝えたくなった。

 東日本大震災と原発事故があった13年前は、会津若松市内にも大勢の人が避難していた。子育て世帯が多く滞在した体育館に、友人たちと出かけて絵本を読んだり、ボランティアにきた市内の高校生と走り回って遊ぶ子どもたちの近くで過ごしたりした。

 その後、市内河東町の元園舎に移転した大熊幼稚園から声がかかり、絵本の読み聞かせ「おひさまの会」を始める手伝いをした。大熊町では以前から活動が盛んだったようで、表情豊かに、笑ったり驚いたりして聞き入る園児たちと絵本を楽しんだ。市内の住宅や郡山市、いわき市から大熊町のお母さんたちが駆けつけて、終わるとそれぞれが避難する場所へ帰っていった。

 先日その会で知り合ったお母さんと電話をしていて、元日の地震の話になった時、「遠い記憶になっていたのに、一瞬であの時に引き戻された」と言っていた。震災で負った傷の深さは、計り知れないものだろうと想像する。

 能登地方には今、家や学校が被災し、避難所で生活をしたり、親元を離れての集団避難や、別の学校の校舎を間借りしての授業等、生活環境がすっかり変わってしまった子どもたちがいる。彼らの傍らに寄り添い、吐き出した弱音や痛みを受けとめてくれる人、緊張を解いてほっとできる場所があることを願わずにいられない。

(前田智子 児童文学者)

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