「とにかく情報を」停電と浸水の中、漁業用無線を発信し続けた 八戸海岸局(青森県) #知り続ける

13年前の東日本大震災発生直後の業務について振り返る岩﨑さん(左)と二部さん=11日、八戸市水産会館
震災翌日から2日間、漁船に情報を伝えるため八戸漁業用海岸局の職員が業務を行った送受信所=7日、おいらせ町

 東日本大震災から11日で13年を迎えた。漁業用無線の通信拠点・八戸漁業用海岸局(青森県八戸市、通称・無線局)では震災直後、停電や入居する建物の浸水に見舞われたが、無線通信士や職員が奮闘し、24時間体制で漁船乗組員を支えた。「漁船と人命の安全を確保しよう」。この思いは、平常時も非常時も変わらない。通信士2人が、あの日の出来事を語った。

 3月11日午後2時46分。当時局長だった岩﨑弘さん(60)は夜勤に向けて自宅で眠っていたが、激しい揺れで目覚めた。「とにかく漁船員に情報を伝えなければ」と、太平洋に面した八戸市水産会館5階にある同局に駆け付けた。「恐怖心とか、そういうのはなかった」という。

 非番の職員も含め無線通信士7人と事務職員2人の計9人全員が集まった。現局長で当時主査だった二部勝幸さん(59)は「漁船の安全を確認し、情報提供をしなければいけないと全員の意識が一致していた」と振り返る。同局も停電したが、重油で動く自家発電機を稼働させて業務に当たった。

 同局には、関係機関から津波情報や注意喚起情報が次々に届いた。「○○に津波警報発令」「津波警報が大津波警報に切り替わりました」。情報が入ってくるたびに速やかに漁船に向けて伝えた。

 窓からは八戸港に津波が押し寄せてくるのが見えた。「風呂から水があふれるように、防波堤から水がどんどん湧いてきた」と岩﨑さん。水産会館は1階の天井付近まで水が上がってきた。気象庁によると、八戸では午後3時22分に津波の第1波が押し寄せ、同4時57分には4.2メートル以上に達した。

 漁業者たちは、津波から漁船を守るために沖合に避難させる「沖出し」をした。八戸港周辺では船が横倒しになり車が流されるなど、沖に出た船が入港するには危険な状態に。八戸海上保安部からは「港は安全ではない」と注意喚起情報が発せられ、漁船が戻ることができない状況が続いた。漁船側からは「まだ港に入れないか」と問い合わせが相次いだ。

 ハワイでの国際実習を終え八戸港へ向かっていた八戸水産高校(八戸市)の実習船・青森丸から「生徒たちに異常はないが、学校と連絡が取れない」と連絡が入った。だが、同局の電話もつながらず、青森丸からは「もし、つながったら船内の生徒が安全だと伝えてほしい」と依頼された。

 小型漁船の乗組員の家族が切迫した様子で同局を訪れ「うちの人が薬を持たないで沖に出た。どうしたらよいか」と訴えた。職員は、船名と海上の位置を紙に書いて海保へ持っていくように伝えた。

 無線通信士たちは携帯電話がつながらない中、交代で情報を漁船に届け続けた。自分たちの車も津波に流され、岩﨑さんの車は水産会館の正面入り口にぶつかっていた。

 翌12日、八戸市内のNTTの施設が浸水したことで通信に使う光ケーブルが使用不能になり、岩﨑さんや二部さんは約20キロ離れたおいらせ町の送信所へ出向き、情報を伝えた。

 「陸ではテレビやラジオが情報を伝えるように、漁業用海岸局は海の上にいる人たちに情報を伝える。一度に多くの人が情報を共有できる無線は、非常時に威力を発揮する」と二部さんは話す。岩﨑さんは震災を経験し「船に情報を伝えるのは無線局だと再認識した。船の安全を守り続けたい」と力強く語った。

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 八戸漁業用海岸局 県と県無線利用漁協が共同で運営。遠洋で操業する漁船の安全確保のための通信や、気象情報、漁模様を含む漁海況など各種通信を、職員が交代しながら24時間体制で行っている。八戸市白銀町の市水産会館に通信所、おいらせ町に送受信所が開設されており、同漁協に加盟する漁船100隻超が利用している。2024年3月現在の職員は無線通信士7人と事務職員1人の計8人。

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