あの日、津波を見て泣き叫んだ「私たちはここで死ぬんだ」 東日本、幼き日の目線で震災体験を伝える若き語り部たち

「ゆっくりと日々を重ねて、体験を語れるようになった」と話す千尋真璃亜さん(右)。元校長の井上剛さんが優しく見守る=宮城県山元町、震災遺構・中浜小

 東日本大震災の被災地で自らの体験や思いを語る若者たちがいる。「災害は人ごとじゃない」「次は自分が役に立ちたい」。でもどう伝えよう。震災13年。語り部となった10代、20代は迷い、もがきながらも言葉を紡ぐ。あの日のこと。あれからのこと。

 震災で637人が亡くなった宮城県山元町。震災遺構・中浜小学校では、看護師の千尋真璃亜さん(22)が語り部として活動する。

 「これが津波なんだ。私たちはここで死ぬんだ。同級生と『死にたくない、死にたくない』と泣き叫びました」

 2011年3月11日午後2時46分。大きな揺れの直後に大津波警報が発表された。千尋さんは当時、中浜小の3年生だった。

 海から約400メートルの場所にある同小。内陸の避難所に行くには時間がない。児童と教職員ら計90人が校舎の屋上へ上がり、倉庫に逃げ込んだ。翌朝、全員が救助された。

 千尋さんは防潮林の隙間から真っ黒い壁のようなものがせり上がっているのを見た。津波だ。

 津波はすぐに校舎に押し寄せ、倉庫の床を水がつたった。ガラスが割れ、物が壊れる音が響く中、児童は机やいすの上に上がって耐えた。

 倉庫の中が震えるほどに寒かったこと。両親は無事かと考えたこと。先生や友人が「大丈夫」と励ましてくれたこと。記憶をたどり時々言葉に詰まりながら、千尋さんは話していく。

 「つらい経験だけど、震災を忘れちゃいけないし、忘れてほしくない」。千尋さんが地元の語り部に加わったのは2年前だ。震災から10年がすぎ、心の中だけにとどめていた思いを文字に起こそうと思い立った。成人し、人の役に立ちたいという気持ちもあった。

 背中を押したのは震災時の中浜小校長、井上剛さん(66)。あの夜、屋上で児童たちと一夜を過ごし、「朝まで頑張ろう」と声をかけ、勇気づけた。今は自身も語り部の一員。大人だけでなく、子どもの目線から体験を伝える千尋さんの存在を頼もしく感じる。

 「まだまだ勉強中」と千尋さん。若い語り部は周囲には少ない。プレッシャーもあるけれど、自分が語ることで同世代に震災や防災の知識が届くことを願う。

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 高校生の語り部もいる。気仙沼向洋高校(宮城県気仙沼市)2年の熊谷操さん(17)もその一人。中学生の時から語り始めた。

 震災当時4歳。自宅で揺れを感じ、祖父が「逃げろっ」と叫んだ。じしん? つなみ? 何もかも理解できなかった。家族と一緒に小学校へ避難したところで記憶は途切れている。

 テレビで見てきた語り部は、自分の経験を話している人ばかり。全てを覚えていない自分が話してもいいのか。迷いはあったが、語り部活動に励む同級生や兄の姿に力をもらった。

 熊谷さんが活動するのは気仙沼向洋高校の旧校舎を保存する「東日本大震災遺構・伝承館」。校舎内に突入してきた車などをそのまま残し、津波の恐ろしさを伝える同館では毎月11日を中心に、地元の中高生約50人が語り部ガイドに取り組む。

 熊谷さんが語る理由は、「災害を人ごとと思ってほしくない」から。「地震が来たら、津波が来たら、と日頃から考えてほしい」(名倉あかり)

### ■「口承文化」が根付く東北

 阪神・淡路大震災などと比べ、東日本の被災地で若者の語り部活動が活発なのはなぜか。東北大の佐藤翔輔准教授(41)=災害伝承学=に聞いた。

 東北には、昔話や生活の知恵を言い伝える「口承文化」が根付いている。たびたび襲う津波のことも語られてきたはずだが、東日本大震災では多くの人が亡くなった。もっと伝えなくては-との思いが、若者の行動につながっているのではないか。震災遺構や展示施設など、語れる場所が多いことも背景の一つ。自分が知らないことでも「もの」があれば心強い。語りたいという若者の背中を押す大人の存在も大きい。

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