漫画『狂気の山脈にて』は静かに人を狂わせる クトゥルフ神話創造主の命日に読む

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ

今回は、哲学者・ニーチェによる有名な一文がぴったりの漫画です。

時事とリンクするタイトルを新作・旧作問わず取り上げて、“今読むべき漫画”や“今改めて読むと面白い漫画”を紹介していく本連載「漫画百景」。

一七景目は、『狂気の山脈にて』です。舞台は1930年代の南極大陸。人を寄せ付けない極寒の世界にそびえる漆黒の山脈──狂気山脈で、禁断の領域に足を踏み入れた研究者たちの凄惨な顛末が描かれました。

原作小説を手がけたハワード・フィリップス・ラヴクラフト(以下、H・P・ラヴクラフト)さんが逝去した3月15日の今日、改めて読むべき作品として紹介します。

田辺剛による「ラヴクラフト傑作集」シリーズ

漫画『狂気の山脈にて』は、H・P・ラヴクラフトさんによる同名の原作小説を、田辺剛さんがコミカライズした作品。

H・P・ラヴクラフトさんの、現在はクトゥルフ神話と呼ばれる怪奇小説群をコミカライズする「ラヴクラフト傑作集」シリーズの一編であり、シリーズ最長の4巻にわたる大作です(シリーズの4巻〜7巻に当たります)。

物語の端緒は、南極調査の探検隊を襲った何かによる惨殺。

なぜ探検隊は面々はバラバラに切り刻まれていたのか?
惨殺現場のほど近くで見つかった星型の遺構は何なのか?
事件発生直前の探検隊が別働隊に伝えた「驚くべき発見」とは?

答えを求めて人類未踏の地を行く人々を克明に描き出した本作は、田辺剛さんによる精緻なタッチで表現される白銀の世界と、そこに立ち上がる異質な黒の山脈の威容によって読者に肉薄します。

クトゥルフ神話の創造主、H・P・ラヴクラフト

漫画『狂気の山脈にて』の内容に触れる前に改めて、原作者のH・P・ラヴクラフトさんについて言及しておきます。

作家のH・P・ラヴクラフトさんは1890年、アメリカ・ロードアイランド州生まれ。怪奇小説専門のパルプ・マガジン(質の悪い紙でつくられた、安価な大衆向け雑誌の総称)などで作品を発表し続け、1937年に亡くなりました。

生前は無名でしたが、死後、友人や弟子たちによって彼の創造した世界がクトゥルフ神話として体系化され、日の目を見ることに。破滅的な物語は後のホラー作家に大きな衝撃をもたらし、世界中で人気を獲得しました。

今でも各国の映画、漫画、アニメ、ゲームに影響を及ぼしており、日本では近年TRPG配信との接近で新たなムーブメントが生まれています。

ゲームクリエイター・まだら牛さんによるTRPGシナリオ『狂気山脈 ~邪神の山嶺~』は、アニメ化プロジェクトに2億円の支援が集まるほどの反響を呼んでいます。

人々を狂わせる、魔性という異形

そんなH・P・ラヴクラフトさんによる怪奇小説群の大きな特徴として挙げたいのが、魔性に魅入られて心を狂わせていく登場人物たちの姿です。

怪奇小説群の各編ではそれぞれ恐るべき異形が猛威を振るいます。人知を超えた存在に対して、登場人物たちは未知への恐怖を抱く。同時に、抗いがたい好奇心に手招かれ、自ら一線を踏み越えてしまうのです。

恐い、でも知りたい。好奇心が恐怖に勝る。魔が差すというか、好奇心は猫を殺すというか。まさに魔性です。

そして、その深淵を覗き込んでしまったが最後、もう後戻りができなくなってしまう

今回紹介する『狂気の山脈にて』でも、この魔性がもたらす好奇心が悲劇をもたらします。

決裂する南極調査隊と好奇心の行方

ここからは漫画『狂気の山脈にて』本編の内容に触れていきます。

前述したように、本作は南極調査の探検隊が悲劇に見舞われる物語。時は1930年。輸送手段や通信手段の発達で、人類未踏の地を明らかにする偉業が人々を熱狂させていた時代です。

他の多くのラヴクラフト作品にも登場するミスカトニック大学が南極調査の探検隊を組織し、隊長をつとめるウィリアム・ダイアー教授(本作の語り手でもあります)以下、優れた研究者たちが最新設備と共に一路極寒の大地へ赴きます。

調査は当初順調に進み、さらには生物学の専門家・レイク教授が大発見に繋がる、ある痕跡を見つけます。レイク教授は偉業を予感し、計画の変更をダイアー教授に直訴するのですが、隊の安全を第一に考えるダイアー教授は慎重な姿勢を崩しません。

レイク教授はしびれを切らし、半ば強引に別働隊を編成して行動開始。後から振り返ると、この時からレイク教授はおかしくなっていたのでしょう。結果的に彼が率いる別働隊は、不可解な惨殺によって壊滅してしまいます。

その後、ダイアー教授は唯一遺体が見つからなかった別働隊のメンバーの行方を探そうと決意。惨殺現場の眼前にそびえる狂気の山脈に挑み、道中で彼もおかしくなっていくのです……。

静かな狂いを読者に悟らせない巧みな描写

漫画『狂気の山脈にて』が特に優れているのが、静かに狂気を湛えていく登場人物たちの描写です。レイク教授は、とある化石を見初めた瞬間から眼の色が変わります。密かにギラつきはじめる。

しかし、そのシーンは本当に何気ない小さなコマで表現されており、初見ではなかなか重要な場面だと気づけません。派手な演出が皆無なのです。あえてそうすることで、レイク教授の中に狂気の種が植え付けられたことを表現しているのですね。

こうした極小の伏線がところどころに張り巡らされていることに読者もだんだんと気づきはじめ、食い入るようにページを注視しはじめます……その時の眼はもしかすると、魔性に魅入られた作中の登場人物のそれと重なっているかもしれません。

はたと我に返って顔を持ち上げ、意外なほどに時間が経っているという濃厚な没入を約束する傑作を、どうぞ今日この日に。追悼の意を込めて。

© 株式会社カイユウ