「どうしようもなくなっての引退は絶対に嫌だった」中村憲剛が生き様を見せつけた“契約交渉での戦い”

フットボーラー=仕事という観点から、選手の本音を聞き出す企画だ。子どもたちの憧れであるプロフットボーラーは、実は不安定で過酷な職業でもあり、そうした側面から見えてくる現実も伝えたい。今回は【職業:プロフットボーラー】中村憲剛編のパート4だ(パート6まで続く)。

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憲剛さんにとって、プロ最大の喜びとは? そう問うと、すぐさま「2017年」と答が返ってきた。

「前年までいた監督(風間八宏)、エース(大久保嘉人)が抜け、鬼さん(鬼木達)が監督に、(小林)悠がキャプテンになって、またここから作り直すのかって空気感のところからスタートしたチームがリーグ優勝できて。あれに勝る喜びは今もないですよ、正直。2018年の連覇は安堵で、(3度目のリーグ制覇を決めた)2020年は引退を発表していたのでみんなに神輿の上に乗せてもらった感じなので、やはり2017年のJ1優勝ですね」

念のため、訊いておく。

「36歳でJリーグMVPを受賞した瞬間よりも、17年のリーグ優勝が上ですか?」

憲剛さんの言葉にブレはない。

「(MVPも)嬉しかったですけど、『最大の喜びは?』と言われてパンッと思い浮かぶのは、あの等々力。大宮(アルディージャ)戦の歓喜です。自分がっていうよりも、等々力が凄い幸せな空気に包まれていました。あとで映像を見たら、みんな泣いているし(笑)」

一番泣いていたのは憲剛さんだったが。

「あの優勝がなければ、16年のMVPが最大の喜びでした。つまり、次点ですね」

17年シーズンのリーグ最終戦、川崎フロンターレは開始直後に決めた阿部浩之選手の先制弾を皮切りにゴールラッシュを披露。最終的に5-0と勝利を収め、同勝点に並んだ鹿島アントラーズを得失点差で上回り、逆転優勝を果たした。

当時、この試合を見ていた自分は、後半アディショナルタイムに入ると憲剛さんの姿を追っていた。ホイッスルが鳴った直後、どんなリアクションをするのか、最大の興味がそこにあったからだ。当時のそんな話をしたら、憲剛さんは「ハハハ」と笑ってこう答えてくれた。

「その場に崩れ落ちましたよね。嬉し過ぎて。もうね、走馬灯のように、勝てなかったシーンをパラパラと映画のように思い出して。大袈裟ではなく、本当に。今でもうるっときますね、思い出すと」

リーグ2位、カップ戦準優勝が合わせて8回。それだけ悔しい想いをしている分、栄冠を掴んだ瞬間の喜びは半端なかった。

「2位が8回で、振りがききまくっている。めちゃくちゃでかい悔しさを、一気にそこで消化できました。あれはクラブの勝利なんです」

憲剛さんの言葉に熱が帯びる。

「散々言われてきたんですよ、僕らが大事にしてきた地域貢献活動が足を引っ張っているんじゃないかとか、心無いことを。『街の人たちに喜んでもらっている活動が足を引っ張ってるわけないでしょう』と言っても、『でも勝ってないじゃん』って言われると、僕たちは何も言い返せない。結果で示さないと納得してもらえなかったので。あの勝利は、クラブのスタンスを肯定できた瞬間でもありました。いやあ、痛快、最高でしたね」

ご存知のとおり、そこから憲剛さんは川崎で複数のタイトルを手にする。挫折からの逆襲。まるで漫画の主人公のようなサクセスストーリーを歩んできたようにも見えるが、本人は「プロフットボーラーとして成功者でしたか?」との問いに対して独自の見解を示した。

「僕ね、自分の人生を成功と失敗で括ったことがないんです。もちろん、プレーの成功、失敗はありますよ。でも、人生の成功って何ですか? 逆に教えてほしいです」

ここにきて、まさかの逆質問。油断していたので、即答できない。それでもあまり間を置かずに、「仕事で大きな成果を出した時か、出世した時か、成功の捉え方も人それぞれですかね」と、そんなニュアンスの話をしたうえで、憲剛さんに「成功の基準もないんですか?」としつこく問いかけてみる。

「成功、失敗ではなく、喜び、悔しさという感覚ですかね。そもそもサッカーを成功と失敗で括っちゃいけないと思っています。『サッカーが好き』。根底にはその感情がある。会社は倒産したら潰れてしまいますが、プロフットボーラーは上手くいかなくても挽回できるチャンスがある。ここっていう勝負どころがあるんです。そこをモノにできるかが長生きの秘訣になります」

長生き。プロ1年目から挫折を味わった憲剛さんは結局、“ワンクラブマン”として40歳まで現役を続けた。厳しいプロサッカーの世界で、18年間もピッチに立ち続けた。

「良いサッカー人生でした。それは間違いない。ただ、成功かは分からない。といか、成功という言い方をしたくない」

憲剛さんならではのこだわりだろう。

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今回のインタビューで憲剛さんの声のトーンが明らかに変わったのは、「現役時代、0円提示の恐怖を感じた経験はありますか?」と尋ねた時だ。質問を遮る勢いで、彼はこう言った。

「それはなかったです。というか、俺は(契約交渉で)最後まで全部勝ち取ってきたんです!」

プライド、意地と表現すべきだろうか。この瞬間、中村憲剛の生き様を見せつけられたような気がした。

「2018年のシーズン終了後にフロントの庄子(春男)さん(川崎で強化本部長などを歴任)と話し合う中で、40歳までやれる可能性がある契約を勝ち取りました。つまり、19年に大怪我しても、翌年に切られる心配はなかった。ただ、その大怪我で年俸やその他の条件が下がることも心配しましたが、11月でもあったので、庄子さんはそのままにしてくれました。そして引退した20年も、復帰した後も何回も庄子さんからは『気が変わったら(引退撤回の意味)いつでも延長するからな』と契約延長の打診は受けていたので、0円提示は一回もないです。しかも、金額は下がらなかった。これだけは最後まで必死に戦いました」

口で言うほど簡単なことではない。

「庄子さんにどこかのシーズン終了後に言われたことがあって。年俸について、『ソフトランディングで行ければ良いな』って。つまり、『緩やかに下降』って意味ですけど、自分はそれだけは絶対に嫌だった。俺はこのまま引退するんだって。実際、それを成し遂げて、庄子さんにめちゃくちゃ褒められました(笑)。だから、サッカーダイジェストの選手名鑑の推定年俸、変わってないはずですよ」

後日、Jリーグの選手名鑑を調べてみる。推定年俸を初めて掲載した2016年版の年俸が「1億円」で、憲剛さんが現役を退いた20年版のそれが「1億1000万円」。下がるどころか、上がっている(ちなみに、17年版の年俸は「1億円」で、18年版と19年版のそれは「1億1000万円」)。

「それこそプロでのこだわりでした。どうしようもなくなっての引退は絶対に嫌で。身体がきついからとか、年俸がダウンしたからとか、そういう理由で引退したくなかった。最後まで使える選手、出てほしい選手、望まれる選手でありたかったんです」

恐るべし、中村憲剛である。

「簡単じゃないですよね。40歳まで、よくやったなと(笑)」

クラブで活躍して、日本代表に選ばれ、ワールドカップに参戦。さらにJリーグMVPを獲得し、川崎にリーグタイトルなどをもたらす。偉業である。

「日本代表、JリーグMVPとか並べていくと、結構凄いよねってなるんです。ただ、それは結果論に過ぎません。現役時代は毎年、勝負だった。こう終わりたいなっていうプランなんてないわけです。それこそ22歳の時は崖っぷちだったので。当然、40歳で引退する未来なんて想定してないですから」

40歳で引退という道筋が浮かび上がったのは「30歳を過ぎて、35歳になったあたりですかね」と憲剛さんは言う。35歳から5年。体力的な衰えも感じるはずの年齢で、年俸をキープ、いや、むしろアップさせて走り抜いたわけだから、陳腐な表現ながら「凄い」のひと言である。

「最終的には中村憲剛がどれだけやれるかに尽きたという話です。毎年、選手が入れ替わる中で、スタメンでチームが求める成績を残すために自問自答するわけです。今の自分でいいのか、この選手が加入したら思考を切り替えて立ち位置を変えたりしなきゃいけないとか、練習中にずっと考えていました。毎日、毎月、毎年、それを繰り返しやっていました」

夢を与えるプロフットボーラーがどれだけ過酷な職業か。憲剛さんの実体験がそれを示している。

引退後、そんな憲剛さんはプロフットボーラーを見て何を感じているのか。現役時代とは違う感覚を覚えているはずだと思って、その質問を投げてみた。

<パート5に続く>

取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェストTV編集長)

<プロフィール>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ一筋を貫いたワンクラブマンで、2020年限りで現役を引退。川崎でリレーションズ・オーガナイザー(FRO)、JFAロールモデルコーチなどを務め、コメンテーターとしても活躍中だ。

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